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Young,Alive,in Love

はじめて手にとった写真集がアジェの写真集だった。写真を撮っている身として、我ながらきれいな話だと思っている。というのも、たしか大学受験真っ只中のときに、地元の図書館で息抜きに文字が書いていない本でも眺めてみようかと思って、写真集のコーナーの一番上の左端「A」から始まる写真家を眺めていたときに偶然見つけたものだ。面で置いてあるわけでもなくて、背表紙に書いてあるタイトルだけでどんな写真なのかもわかるわけなくて、本当にたまたま端にさしてあったものを手にとっただけだった。色んな写真家の源流をたどっていくと大抵はアジェにたどり着く。写真家を一人も知らなかったときに、ましてや、アジェがどれほど偉大かなんてことも知らなかっただけに、今思うとこの偶然が運命的な出会いだったのではないかとすら思えてくる。

そのままなんとなしに大学に進学して、キャンパスから少し離れたところにある個人経営の古本屋に入った時に、アジェの写真集に再会する。その頃も高校生の時に見た気がするという程度だった。進学してから写真家のアシスタントについて、パリに行ったときですら今ほど意識することはなく、自由時間をもらえたら見に行ってみようくらいの感覚だった。いざ、Rue de Seineというキーワードを頼りに街中を散歩していると、思いの外、簡単にあの三叉路にたどり着いてしまった。初めて手にとった写真集、つまりは百年近く前に撮影された建物が目の前にあって、アジェが止めた時間のはるか先に自分も立っている。その頃まではなんとなくアジェの写真を見て、なんとなく自分も写真を撮っていて、突然達成感というべきか、撮ってしまったという感覚になったのを覚えている。今でも自分の撮る写真が美しいとか、いいの撮れたなとか感じることはあまりなくて、何千枚の中の一枚程度は、これは誰にも真似できないとでもいうべきか、ものすごい自信に満ち溢れるくらいいいものが撮れることがある。その中の一枚がこの時の写真で、これは誰にも真似できないというよりは、その逆で、ついに自分もアジェの跡を追ってしまった的な一枚である。

今死んでも悔いはないかもしれない。心の底からそう思って多分ボソッとつぶやいてしまった気がする。そして、その日の夜にパリ同時多発テロ事件に巻き込まれることになる。言霊という言葉があるように、声に出してしまうと本当に発言したことが現実になることもあるのだと思った。爆破されたバタクラン劇場から2ブロックほど離れたフレンチレストランのテラス席で、優雅にフレンチをご馳走してもらっているときだった。死にかけた時のことを書き始めると話がそれてしまうので、一旦アジェに戻す。

アジェの写真は画家のため、そしてその時代の街並みを記録し、歴史的資料として、博物館などに写真を販売していた。金持ちや有名な人の肖像画を撮るわけでもなく、作家として何かを表現しようとしていたわけでもなく、時代の流れをただ記録し続けた写真家だった。僕が撮る写真は自分の日常の延長で、アジェのような即物的な写真ではない。タイムラインに上がってくる写真も基本的には誰かの日常が大半で、その類の写真を僕も撮っている。渋谷の街を人込みで(かっこよく言えば)即物的に捉えようとした写真家が炎上(昔は像を定着させるまでに長い露光時間が必要で、今みたいに手持ちで撮ることが難しかったので、必然的に人が動いている間はブレて、というか定着する前にフレームアウトして、人物は写せないし、そもそもの対象が静物としての街なのか、人を含めての生きた街なのかとか色々複雑な要素があるけど、一旦それを除いて広義な意味での冷たい視線(カメラ)を向けて人を撮りまくってしまったという意味で。)し、そういう写真は時代の流れからか、淘汰されていって、芸能人のプライベートな写真だったり、個人の日常生活だったり、いわゆる私小説のような写真が溢れている。写真でいうところの私写真というジャンルになるのかもわからないが、僕も日常の延長を記録してそれを「私写真ですね」とくくられてしまうことがあるのだが、それに違和感を感じてしまう。私写真という言葉が生まれて、それをうまく利用してきたのはアラーキーしかいないと思っていて、彼が撮った彼の日常の写真でしか成立しない。僕が撮っている記録写真を言い換えるのであれば、ただの思い出の写真である。特に自分のために撮っているわけでもなくて、強いて言うならその楽しい時間の中に写っている自分の友だちのためではあるのかもしれないし、そんなおこがましい動機を考え始めたら写真は撮れないし、何が言いたいのかと言うと写真を撮る理由は未だにわからない。撮ったものの中からあとで見返して自分の立ち位置だったり、自分の視線を改めて見つめ直したりして、思い出の写真に新しい意味を持たせるのだ。

僕の師匠、青山裕企氏の写真集との出会いもアジェの写真集を手にとった理由と同じで「あ行」の棚から見始めたときだった。高校生の頃に聞いていたバンドNUMBER GIRLとなんとなく名前が似ているという理由だけで手にとった写真集がSCHOOL GIRL COMPLEXだった。アシスタントを離れて数年経った今見返してみると、写真家本人のトラウマを写真でもって昇華してしまったという意味で、この作品は現代美術として成立しているような気がした。かつて弟子であった身分で書いていくのも畏れ多い気もするが、写真から作家の意図を暴きたいわけではなく、僕個人がリスペクトするこのシリーズに僭越ながら、新しい読み方を提案したい。

フェチ写真として人気を博したこのシリーズであるが、写真だけを見ると、制服を着た女の子が写っている。顔は写しておらず、女の子とはいえ、実際のところ本当に女性であるか、年齢的に学生なのかもわからない。寄りで切り取られた肌質やほくろ、傷跡などから見る側がどんな人なのかを想像するしかない。個人を判別するために顔は絶対に必要な要素である。被写体のわかりやすい個性(かわいい、綺麗、イケメン、やさしそうなどというキャラクター)に左右されることなく、そこに写った「制服」「女子高生」「絶対領域」「チラリズム」といった記号にフェティシズムを感じるのは、クールジャパンを推進するこのご時世を考えると当然である。(フェティシズムはフロイト曰く、性的対象の歪曲であって一般的に使われている○○フェチのような変わった性癖のことではない。簡単に言うとマンガやアニメのキャラクターにガチで恋をしてしまう現象のことだ。言葉は生き物のようで時代の変遷と共に、意味と使われ方はどんどん変わっていく。サブカルという言葉だって同様に変わってきているし、それこそガチという言葉だってマジから派生した言葉と考えるとマジは江戸時代から、なんて切りがないので割愛。)

フェチ写真というテクストだけ見ると少しえっちでポップな写真だが、僕はそんなポップなベールに包まれた奥に写真作品として深い性質があると思っている。本人のトラウマを昇華してしまった写真と書いたが、トラウマは本来自分では気が付かないことに恐怖を感じていることであって、例えば、犬が苦手な人がいたとして、「子供の頃に近所の犬に噛まれてからそれがトラウマで」というのは、犬が嫌いになった原因が明確なので、トラウマとはいえない。犬が苦手な原因が分からず、そのわからないものがトラウマである。簡単にまとめてしまったが、実際こんなシンプルなものではない。(例えに犬嫌いを挙げたが、別に犬が嫌いな理由なんて知らなくてもいいわけで、犬の鳴き声が聞こえただけで卒倒してしまうくらい苦しんでいるとか、トラウマはもっと精神的に苦しいこと、心的外傷のことを指す。ただ苦手な理由がわからないことをトラウマとしているわけではないということを強調したかった次第だ。後にも書いているが、フロイトの理論をここに書いてしまうと、SCHOOL GIRL COMPLEXも男性の視点で切り取ったものだし、フロイトの思想も男性優位的な視点が絡んでしまうために、僕の言葉足らずで曲解されるのも困るので、言葉の使い方としての例で簡単に書かせてもらった次第である。)

アシスタントをしている時に聞いた話、学生時代、女子と会話をしたくても怖くてできなかったということ、女子の目を見ることができなかったから、そもそも顔が思い出せないこと。恋人の手を握るように女の子に触れたい。当たり前のことのように思えることが怖くてできない。その視点が結果的に写真になって写し出されているというのは撮っているうちに気づいたという。つまり、撮る前から意識していたことではなく、自分と女子との縮められない距離感を写そうとした結果、縮めることができなかった理由が写り込んだ。つまり、無意識的に女子に抱いていた恐怖心が写真家の視線として写真にしっかり写り込んでしまっていたということだ。一見して、男性がいやらしい目で女性という性を消費しているように思えるという声も聞こえてきそうな気もするが、このトラウマの克服という観点から写真を分析してみると、たまたま男性が抱く女性に対する恐怖心であったが、逆のことでも成立するはずであるし、何なら性別も関係ない。

フロイトの理論に基づくと、トラウマ自体、性的暴行を根底にしたものだし、トラウマの話に性別は関係ないと言ってしまうとズレているようにも見えてしまうが、あくまでトラウマを写真で克服したという意味で性別に関係なくと言いたかった。そもそもの話をしだすと、戦場でのフィールドワークとして男性がカメラを扱うものという名残が現在まで繋がっているだけで、女性のみでも変わらず写真は発展し続ける。報道として世の中のことを伝える役割が雑誌にあって、それが徐々にエンタメ化してという流れから、名カメラマンと言われるオジサマ方が写真業界の玉座に腰を据える。彼らが女性写真家を賛美しなくとも、性別に関係なく写真のカルチャーは進んでいたはずである。

SCHOOL GIRL COMPLEXで写し出しているものは女子高生(かもしれない)という記号であって、作家のステートメント(言葉)を踏まえて読み解くと、作家自身の無意識の領域を垣間見ることができる。その無意識の領域は本人でさえ気が付かないこともあって、他者からの導きによって意識の底から引っ張られることもあるし、鑑賞者が見たただの妄想に過ぎないかもしれない。シャッターを押した瞬間、時間を凍結し、写真家の目から見えているもの、そして無意識という精神世界まで可視化してしまう可能性もある。写真に撮り手の内面を写すことはできないと書いたが、その領域に気が付くかどうか。そして、それはあとから言葉で補足していくしかない。シニフィエとシニフィアンが結びついた時に記号が生まれる。そしてその関係は恣意的であり、そこに約束事はない。写真に写る無意識という領域がシニフィエだとすれば、シニフィアンを結びつけるのは作家自身であっても、他の誰かであってもいいのかもしれない。

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