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写真家アシスタント時代のメモ

こちらの記事は2020年5月頃に下書きのまま放置されていた記事をたまたま見つけて加筆修正した記事です。2020年当時のことはそのまま大幅な変更は加えず公開します。

2022年1月22日

まえがき

2015年にアシスタントになってから今まで(2020年)写真についてのメモをとっているノートがある。くだらないことも小難しいことも一旦頭の中を整理するためにざっと概要をここにまとめた。ここ数年の間、写真のことを考えなかった日はない。毎日考えても答えを得ることはできない。そもそも何を求めていたのかもわからない。写真ってなんだろう。僕はどうして写真を撮り始めたんだろう。写真を撮り始めたきっかけは憧れの人たちの側に居れると思ったからだ。そんな下心から写真を撮り始めたといってもあながち間違いではない。写真を撮る人間は記録者という別の役割の中で自分が望む世界に居ることができる。俳優になれなくても俳優を撮ればいい。ギターを弾けなくてもライブを撮ればバンドメンバーの近くに居れる。あたかも自分もメンバーの一人かのごとく追いかけてそういう活動をしてきた。そんな中で、写真で自分らしさを形にすることができなくて壁にぶち当たったことがある。写真におけるオリジナリティはなんだろう。そもそも写真は被写体がなければ成立しないのだろうか。少しずつ写真に接する時間が増えてくる中で、カメラを初めて触ったときのように純粋な気持ちでシャッターが切れなくなってきた。何事においても写真に活かせるような時間の使い方をしないとどこか不安を感じる。しばらく写真を忘れることができたらどれだけ楽になるだろうか。そもそも「写真とは」なんていうのは永遠のテーマであって、これといった一つの答えは導き出せない。時代によって解釈は変わってくる。史実と違えば指摘はほしいが修正はしない。ここからは人から見聞きしたメモのまとめと個人の記憶の整理である。

メモ1:写真を撮る人の肩書

写真家、カメラマン、フォトグラファーはちょっと違う。以前、書いた記事から加筆修正して引用する。まず、この3つの肩書を英訳すると、写真家はPhoto Artist、カメラマンはCamera man フォトグラファーはPhotographer。写真家だけ分かりやすくなった。海外において、アーティストをただそのままArtistと訳してしまうとどんなことをしている人かがわからない。日本ではバンドマンをはじめとして曲を書いている人たちもひとまとめに「Artist」と呼ぶ。英語圏においては、Musicianという表記が正しい。つまり、写真を撮る作家はPhoto artistになる。Photographerに関しては、広告を始めとした商業写真を撮る人たちのことを指すらしい。日本でよく使われるCamera manは、海外だと動画を撮る人のイメージとのこと。テレビカメラマンという感じだろうか。以前、パリの展示会場で出会った中東らへんの自称photographerの方に教えてもらったことなので、本当かどうかわからない。どこの国かは忘れてしまったが、航空会社の広告とか撮っていて作品を見せてもらったときを思い出すと、妙に説得力があったことだけは覚えている。

ここに当てはめるのであれば僕はPhotographerだったと言えるかもしれない。アシスタントにつくまではライブカメラマンになりたくて、いろんなバンドの後ろにくっついて全国を飛び回っていた。ここ最近はしばらくライブは撮っていない。商業カメラマンよりも写真家に興味が出てきたのだ。もしかしたら、これは逃げなのかもしれない。あとで書くにせよ、商業カメラマンをやっていく上で高度な撮影術は必須。正直、僕は写真が上手ではない。撮る写真に自身がないから言い訳がしやすい自分の作品を撮る方へと逃げ出しているのではないか。悶々とこの悩みを抱えながらも僕は未だに社カメとして毎日写真を撮って生活をしている。良い写真を撮ってたまに上手な写真が撮れればいい。


メモ2:上手な写真と下手な写真、良い写真と悪い写真

上手な写真は技術的にみて良い写真。構図配置、ピント合わせ、光の使い方、撮影に必要な技術でもって評価できる写真のこと。下手な写真はその逆。「ピント甘くない?」と「ぶらしすぎじゃない?」はだいたい写真の良さがわからない人が他人の写真を見てまず言う一言だと思っていい。良い写真だったら技術なんて関係ない。

例えば、成人式の前撮りでプロが撮る写真は大前提として上手な写真でなければならない。友達が撮った成人式当日の記録写真の方が良い写真だったりする。それは、撮る人と撮られる人の関係性が近いから良い写真が撮れる。
悪い写真に関しては例えば、仕事でクライアントからこのモデルを起用して明るい感じの笑顔あふれる写真を撮って欲しいという依頼が来たとする。でも、撮り手がこのモデルはクールでアンニュイな方が絶対にイメージに合うと思って、真顔の写真だけを納品した。たとえその写真がたしかにクールな雰囲気で上手な写真だったとしても、クライアントの要望に応えられなかったという点においては悪い写真といえる。もらった要望をもれなく撮影してそのあとに余裕があれば自分の好きな写真を撮って提案する。これが重要だということ。

高校生が撮った写真はエモい。とび職人が撮った写真は素晴らしい。デザイナーが撮った写真はうつくしい。写真家がそのような別の領域にいるコミュニティを撮ったところで勝ち目がない。そう嘆いていた人が身近にいた。きっとその人は写真家をよく知らない。現役で活躍している写真家には元デザイナーとか、元編集者とかカメラを持ち始める前に何かをしていた人が多いし、写真家は写真を撮ることだけがすべてではなく、世の中のあらゆる情報を知りえなければならない。ある大御所はかならずニュースや新聞をチェックしたあと外に出て世の中の動きを観察していると言っていた。写真だけやっている人の写真が面白いわけがない。写真だけで勝負しようとしているのはただ写真以外のことを知らない言い訳に過ぎない。

メモ3:写真は誰のもの

写真は既存のものの複製物。例えば椅子があるとする。実はこの椅子も模倣品だという考え方がある。製造ロットで数百個作られたうちの一つという意味ではなくて、この椅子を作った人の頭の中にイメージとしての椅子が存在する。オリジナルは頭の中のイメージそのもので、実際に工場で具現化された椅子は脳内の模倣品になる。つまり、目の前にあるこの椅子を描くにしろ、撮影するにしろ、作者の頭の中にあった椅子をコピーしようとしているにすぎない。

「写真はオリジナルを複製してどこにでも持ち運べるもの」とすると、シャッターを押さずしても、例えば写真家の頭の中のイメージを具現化するために他の人がシャッターを押したとしたら。この写真は誰のものなるのだろう。男性が走って飛ぶ姿を写真におさめたい。そのためにモデルを雇って撮ろうにもなかなか指示が伝わらずイメージ通りの写真が撮れない。もしかしたら自分が走って飛んだほうがイメージ通りの写真が撮れるのではないか。そこで、雇ったモデルにシャッターを押してもらうとする。この写真は誰のものになるのだろう。大前提として写真はカメラのシャッターを押した人の所有物になるとされる。つまり、他人の物であってもカメラでおさめてしまえばその写真は撮影者のものになる。ここでいうオリジナルとは、本来シャッターを押す側にあった人の頭の中にあるイメージのはずなのに、代理で写真を撮影したモデルのものになる。

また、ルーブル美術館に展示されているモナリザの絵画を額縁が写らないように接写したとする。もちろんオリジナルの絵画はそこに展示されている絵、いや、ダヴィンチの頭の中のイメージだが、写真を撮って自宅に持ち帰ってしまえばそれは撮影者のものになってしまう。細かいところまで掘ってしまうと、モナリザのモデルになったあの女性の肖像権は本人にあるものの、絵として描かれてしまうとそれはダヴィンチのものになり、その写真を撮影した人のものになってしまう。よくわからないことになってきたが、とにかくそんな暴力性が写真(複製物)には潜んでいる。

メモ4:芸能人を撮ることはすごいこと

仕事で撮影した芸能人の写真はウケがいい。でも、それは自分が撮った写真ではなくて、そこに写っている被写体がすごいからだ。「すごい」と言われてそれを撮った自分がそうであると勘違いするようではまだまだである。多分。でも、実際はすごい。写真家本来の仕事を全うしている点においてはすごいということだ。ある大御所の写真家いわく、写真家は写真だけではなく世の中のあらゆることを知らなければいけないという。昔の写真家も今の写真家もそれぞれが生きている時代にしか撮れない写真を撮っている。その時代にしか撮れない写真は世の中の流れを把握していなければ記録することができない。その時代を記録し続けることが写真家の使命であり、写真の最大の特徴ともいえる。だから、写真家にとって、今をときめく時代の顔を記録できたという点ですごいと言えるのだ。ただし、カンディンスキーいわく、ある具体的な対象は必ずしも絵の美しさにとって必要不可欠な条件ではない。つまり、絵の美しさは描いた対象に依存しないということ。これは写真においても同じで、芸能人を撮ったから優れた写真ではないということ。

メモ5:プロとアマチュアについて

写真家には弁護士や医者と違って資格がない。写真家だと名乗ればいつでも写真家になれる。そうなってくるとプロとアマチュアはどのように見分けられるだろう。それは、周りに委ねるしかないのかもしれない。一つの基準として写真を撮ってお金を稼げるかどうかということもあるけど、基本は周りにプロと言わしめることができたら、それはもうプロなのかもしれない。お金を稼いでいてもアマチュアと言われたらそれまでだ。

僕はフリーランスとして写真を撮っていた時期がある。会社員になってから君はもうプロじゃないと言われて以降、プロとしての定義がわからなくなった。僕をプロとしてみてくれる人もいればアマチュアとして見る人もいるわけだ。何を撮らせても要望以上のものを仕上げるのが一流だとする。とはいえ写真にもジャンルはあって、医者に外科医と歯科医がいるように専門の領域は分かれる。光り物、例えば、時計やジュエリーを撮らせても一流、人物を撮らせても一流というのはどこか説得力がない。サイゼリヤで食べるカルボナーラは美味しい。だけど、一流ではない。パスタを極めた専門店のシェフが作るカルボナーラの方が一流に近い。写真を仕事にしていると、なんでも上手く撮れると勘違いされるのはよくあること。そういうやつは腕がちぎれても内科に行ってみてほしい。とはいえ、頼まれた以上、ある程度のクオリティの写真は撮らなければいけない。ファミレスのような写真家になるのか、イタリアン、フレンチ、割烹などなどの料理人になるのかの違いだろうか。サイゼにはよく行くしファミレスを下に見ているわけではない。こんなことをわざわざ書くのも野暮ったいが、カテゴリーわけをするにあたっての例え話だ。

メモ6:アートとクリエイティブの違いについて

先に一言でまとめてしまうとクリエイティブは結果が全てでアートはプロセスが大事。とはいえ、創作物なんてものは見る人の感性によって違う。見た人が「これは悲しさを表現している」といえばそういうことだし、対して別の人が「これは喜びを表現している」と言ってしまえばその通りになる。というのも、昔は話が変わって、作者の意図を作品から読みとるという行為が普通だった。それがだんだん作品を鑑賞することの幅も広がってきて、その作品から何かを感じることを快楽とする考え方も生まれた。つまり、作品に意味を与えるのは鑑賞者であって、あくまで作者はその作品を世に放っただけ。鑑賞者と作品の関係ができて初めてその作品は意味を持つようになるということ。20世紀前半のニューヨーク・ダダでうまれた考え方。マルセル・デュシャンが便器を美術館に展示しただけの作品「泉」が一番有名かもしれない。作者が誰であるかを隠すためにR.Mattというサインだけ施して美術館に展示した。見る人は、どこにでもある便器がなぜ美術館に展示してあるのかを考え始める。芸術作品ではないどこにでもあるようなものが、美術館という特異な空間に展示してある。それだけで芸術と呼べるのだろうか。前述したようにデュシャンはこれまでの芸術という概念に新たな視点を見出したパイオニアの一人とされる。作者の意図を形にしたものが作品なのではなく、作品はそれを鑑賞する人の視線を浴びて初めて成立する。つまり、鑑賞・批判は作品の背後にある作者の意図をあぶり出す行為ではないとうこと。作品だけではなく、私達を取り巻く世界が「見られ」、「読まれ」、「聞かれる」存在であって、読み取られるという行為によって新しい生を生きる。

「読み」=新しい内容の付与。

写真に限らず、文学・哲学・音楽、あらゆる「テクスト」を読むという行為は読み手が対象から意味を受け取ると同時に、新しい意味を付与するという相互的行為なのだ。

バルト曰く、"テクストを知的対象として想像することほど意欲を失わせるものはない。テクストは快楽の対象である。文学的テクストが私達の生命に乗り移ってくる時、別のエクリチュール、他者のエクリチュールが私たち自身の日常性の断片を書くような時、つまり、ひとつの共存が生産される時のこと、それがテクストの喜びである"

クリエイティブは一つの作品を制作するにあたって必ず目的がある。例えば、広告の分野。インパクトが強いものを作りたい。インパクトだけでは物足りないからしっかりコンセプチュアルなこともしたい。目的はなんだっていい。クリエイティブなものを制作してその結果がどうだったか。多くの人に見てもらえて、どれだけの影響力があったのかが一つの評価基準になる。
アートに関しては結果なんてどうだっていい。その作品が形になるまでの間にどんな心境の変化などがあったのか。その過程を分析していく。いわば、言い訳し放題のクリエイティブとも言えるかもしれない。「無題」、「untitled」のような見る人に委ねたいという理由でタイトルやキャプションを書かない作品をよくみる。クリエイティブはそれで成立するが、アートにおいてその作品解説を放棄するようなものは大抵がただのゴミになる。このようなタイトルをつけるのは、一通りいろんなものを作ってきたか、経験したうえでなにも言葉で補足することがない、ある意味一周してきてしまった人がつけるものである。説明がないのと説明ができないのとでは大きな差がある。

自分が撮る写真も本当はその作品と鑑賞者の関係になるのが理想だ。作品対鑑賞者を俯瞰する立場なんてなかなか傲慢なこと。芸術ときくとどことなく高尚なもののようなイメージを感じる人も多い。実際、昔は高尚なものであって、絵画にしろ彫刻にしろ、宗教と密接な関わりがあったのはなんとなくわかる。西洋絵画を例に考えてみると、個人の肖像画が描かれる前は皇帝や神の姿が多く描かれていた。この時代は政教分離をする前の時代。宗教国家の権力を示すため、つまり信者獲得のために崇拝の対象を広く拡散させるために必要なのが絵画の役目だったということ。徐々に宗教から離れていき、ヒエラルキーが高い上層階級の人間がその時代に地位の高い身分であったことを証明するために、画家に自分たちの肖像画を描かせるようになってきた。こういった貴族たちが肖像画を描く画家たちのパトロンで、徐々に描き出す対象が神様、王様、ご主人様と身近な対象へと変化していった。国家としての権威を象徴するための芸術というと、なんとなく上述した広告のクリエイティブに近い。この話の時代から飛んで戦争を繰り返していた時代において報道写真は国策プロパガンダという性格を帯びてしまう。ある意味国民たちを洗脳させるための道具として扱われた。そんな時代からその当時の報道写真家たちが、写真家の地位の向上とフリーランスとしての自分たちの生活を確立するべく立ち上がったのがマグナムである。と歴史を書き始めると話がどんどんそれてしまうのでここまでにする。

明らかに目的のある制作物。アートの定義は時代によって変わってくるというのは、こういうことで、当時は見る人に委ねたいという考え方すらなかった。見る人に委ねるのではなく、この一枚の絵画によって見る人を支配しようとしていた。文字の読み書きができるのは特権階級で、ピラミッド階級を崩さないために文字が読めない貧困層を絵でもって支配しようとしていたというとなんとなく納得してしまう。

メモ7:ヌードとポルノの違い

こちらも以前書いた記事の中から加筆修正を施して転載する。肌の露出が多いということが悪であるとするのなら、裸婦が描かれた西洋絵画はどういう説明ができるのだろうか。どこまで遡ればいいのかわからないが、ルネサンス期の美術は彫刻、絵画などあらゆるところで裸が一つキーワードとして思い浮かぶ。ルネサンス期は古代ギリシア・ローマへの回帰がテーマだったような気がする。宗教上、裸はアダムとイブが罪悪を知る前の状態で、純粋無垢なものとされた。つまり、裸であることが最も神聖な姿で、服を纏うことが世俗的ということだ。欧州の作品は女性の裸だけを描いていたわけではない。ダビデ像はじめ、他にも多くの男の裸像が存在する。性別に関係なく裸であることが神の権威を象徴するという意味合いがあった。キリスト教は肉体と精神を切り離して考えることはなく、筋肉質であること、ふくよかであることを肉体美とし、肉体が美しければ、精神もそれに伴いよしとされた。宗教上の話でもってヌードを肯定しているわけではない。あくまでその当時の考え方をここに引用しているだけ。そして、美は人を引きつける何かがある。そして、美が宿るのは形あるものに対してだ。この話を例にして考えると、肉体に美は宿る。美の反対概念は崇高なもの。つまり、自然。自然は形なき形として、例えば雪山を想像してほしい。一面雪景色に覆われた美しい風景。風が強く吹き始めればその美しい景色は吹雪に変わって、荒れた自然の猛威は恐怖へ変わる。崇高なものは形を壊しながら変化しうるもの。崇高は人を引きつけながらも突き返す。

ミケランジェロの「最後の審判」もルネサンス期に描かれた作品とされているが、すでにこの時代で裸に対する抵抗もあったようで、裸であれば神聖というわけでもない。描かれている人物の多くが服を身に着けておらず、そこを批判する者もいた。ミケランジェロの死後、服の描画が追加されたという話も聞く。ミケランジェロがここまで裸であることに執着したのは、彼が生粋のプラトニストだったからとされているが、イデア論に関してはかじってもいないほどの知識のために割愛する。(ちなみに、「写真は誰のもの」でも書いた頭の中に描いている椅子の話もここからの引用。)この時代、芸術家のパトロンの多くが貴族であったように、この種の西洋絵画は本来、教養のある知識人のために描かれたものであって、俗世的には今で言うところのポルノを見るようだったともいう。

そして、日本で古くから信仰されていたのは仏教であるが、仏教はキリスト教と違って、肉体も精神も実在しないものとされている。諸行無常というやつだ。つまりは、裸であることが神聖な姿であるという説は通用しない。ヌードに対する価値観を宗教上の違いとするにはいささか無責任のような気もするが、時代の流れによってあらゆることの価値観は変わっていく。そして、ポルノは性的興奮を目的とした性描写。ポルノとヌードの境界の話は割愛する。AVと映画の違いみたいな、どこまでが性的描写にあたるのかという問題はさすがに僕の知識では語れない。以上。

あとがきと次の課題

以上がアシスタントになってから今まで(2020年)写真についてのメモを読み返してここに打ち込んだ文章である。最後におそらく学生時代にとったメモだと思うが、あとがきにまとめることにした。

写真には絶対に表現できない領域がある。それは否定。否定を写真で表現することは難しい。例えば、机の上にりんごがない写真を撮ろうと思ってもそれはできない。机の上に何もない写真を撮ればそれは机の写真。机の上にりんごが置いてある状態を撮ってバツを加えれば、バツはその机とりんごとは別次元の異物になってしまうので成立しない。ある意味写真は希望であり救いだと思う。

プロペラやタイヤをずっと見ているとだんだん逆回転に見えてくる。写真を撮るときは対象となるものを凝視して観察する。それは人であっても物であっても変わらない。特に人を撮るときは自分だけが見ているのではなく、相手からも見られているということを忘れてはならない。撮る撮られるの関係で示すとどこか一方通行のような構図になるが、見る見られるの関係でいうと、それは相互に作用する。物においてもじっとそのものを見続けていると逆に見られているような錯覚に陥ることがある。つまり、断片を切り取るという行為は逆にこちら側も撮られているという構図に転換することもできる。これは、写真家自身の喪失を意味する。そして、写真を図と地で解析していくと、切り取った被写体を中心にその周りの環境は背景として無化される。その対象物が浮かび上がった状態はすなわち崇高な姿。背景の中からまた新たな気付きがあるとき、それは自分自身撮影のときには気が付かなかった無意識の領域にたどりついているということ。この見る見られる関係と写真という枠を図と地で分析し、切り取る対象への最大のリスペクトと写真家である自分の主観性を突き抜けることが次の課題である。

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