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書楽というともし火

町にはどうしようもなく書店が必要だ。
ふと思い立って行く、待ち合わせまでの時間をつぶす、大切な人をつれていく、切羽詰まって駆け込む。
どのような接し方だとしても、街角に書店はあってほしい。
阿佐ヶ谷書楽はまさしくその情景そのものと呼べるスタンスの、愛される書店としてそこにある。
平台に新しいハードカバーが並び、一般書籍とコミックと学生のための問題集、趣味の専門書があり、奥には名作古典の文庫や新書。
あたりまえの書店、というスタンスが、実はこの十数年来はそれだけで生き残れない時代になってしまった。
それでも書楽はあり続けた。流通事情が変わっても、出版不況が叫ばれても、税の値があがっても、阿佐ヶ谷駅を通り抜けると、右手に交番があり、正面に樹木を見上げる広場があり、その裏に書楽があることは、その駅まわりと密接な暮らしにとって大切なことだった。

高校生の頃に、好きなシリーズの特装版を求めて駆け込んだのも書楽だったし、同じ時期に同年代で文壇デビューした作家の書を苛烈な想いで求めたのも書楽だった。自転車でいくつもの書店を息せき切って巡り、最後に書楽で得た喜びを忘れていない。近年でいえば、発売前に重版の確定したSFマガジンを予約したのも実は書楽だ。
学生が初めて一人で入る上で安心して通える場、というのは町にとって重要だ。

その学生が今に至ったのも、駅向こうの書店に助けられてきたためだ。

世の中にはワインを置く場もあれば、玩具を置く場もある。書楽はワインでなく水を提供する場だった。あたりまえのあるべきものをあるべきものとして提供する場だった。
「あたりまえ」が「あたりまえ」に至るには並ならぬ苦心がいる。
成人して別の書店に勤務してそれを知り、文筆を通じて自らの経費を計算するようになると開業者としての心得をその場から覚えた。

その閉店を知ったとき、私は長年連れ添った冷蔵庫が壊れ、また読書好きの親戚が死去したばかりで、それこそ目に見えないところで自分を庇護してきた存在がまたひとつ去る心もとなさを覚えた。
「あるのが当たり前」のものはないのだ。年末年始は暇さえあれば書楽によって、本を求めて過ごした。けれどこれもひとつのノスタルジックな行為で、あの苛烈な追いかける気持ちと違うこと自体が、その書店を広場脇に留め置くことができなかった要因なのだと悔やみながら。

ずっと「いつか」と思っていた文学の書も、学生のときにやむなく手放した文庫も、最新の雑誌も気の赴くままに求めた。これまでに導いてくれた書も、これから出会いたいと思っていたものも。
そうやって本棚を巡っていると、その年齢のときどきの自分が思い出され、そのときどきが思い出せる! という時点で、惜しみない、けれど穏やかなその場のありがたさをしみじみ覚えた。

書楽は幕を閉じるけれど、また別の書店としてそこに生まれ変わる。けれど、その静謐な知の沈黙を呈するような漆黒のカバーを私は世を去るまで愛して手放さないことと思う。
これまで、本当に本当にありがとう。愛と敬意を捧げます。

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