絹川の流れは絶えずして

あと一か月ほどで『短歌になりたい』を出させていただいてから一年になります。

何年も前のことですが新人賞をいただいてからの日々の中で私が気付いたのは、受賞してもそれで自分の道が達成されたり道そのものになれたりするわけではないということです。

そんな楽な道があるわけがなく当たり前のことなのですが、私は実際に本を作るまでは本の表紙というのは想いが結晶化して勝手に浮かび上がってくるものだと思っていたくらいフワフワしていたし文学の世界に夢見ていたので、
短歌の賞というのは"短歌"からもらえるものだと思っていたというか、それに選ばれたならいつか自分の道はもう達成されていて何も心配することはないという実感が持てる時が来るのではないかとどこかでずっと待ってしまっていました。

実際に本を作ることになり、本の表紙は勝手に浮かび上がってくるものではないと理解していく過程では、それまで友達だと思っていた本たちもこういう風に作られていたんだと裏切られたような気になりましたし、
自分もこれから人のことを誤解させて裏切ることになるのではないかと心配でした。
なので『短歌になりたい』はそういうことがなるべく起こらないよう自分なりに気を付けて作らせていただきました。

言及されているのを見たことがないですが章の扉に付けた詩が気に入っています。
写真を撮ろうとして初めて気付きましたが、この詩の一行空けは必要なかった(誤植)かも

理解することはフワフワした自分を二つに引き剥がして地面に引き摺り下ろすような痛みで、苦しみましたが
(いま思い出しましたが床にたおれて殺虫剤をかけられた虫のように苦しんでいました)
でも多分その経験を持ててよかったと思います。

リルケの本に「誰に勝利を語ることができよう? 堪え忍ぶことがすべてなのだ」という言葉がありました。
今は今で変わらず求道中です。

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