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財布を落とした時の行動記録

生まれて初めて財布を落とした。免許証も保険証もカードもすべて入っているやつだ。コートのポケットが軽くなっていることにもっと早く気付くべきだった。本格的に焦り出したのは帰宅して1時間ほど経った23時頃。自らの手で鞄の中身を散乱させた床に座って、今出来ることを考える。

まず心配なのはカードだった。紐付けている口座の残高を銀行のアプリで確認する。まだ心当たりのない出金は見られず少しほっとする。
財布に入っていたカードは2種類。JCBのクレジットカードと銀行のデビットカードだった。両方のアプリをインストールしていたため、スマートフォン上ですぐ利用停止手続きを行う。JCBは再発行に1,100円掛かるらしいが、今は気にすることではない。デビットカードの方は無料で、通知をON/OFFするような1アクションで切り替えられるという手軽さ。簡単過ぎて逆に不安になった。

次に落とした場所を考える。会社を出る時には確実にあったことは覚えている。立ち寄った店などはなかったので、帰路の電車内が可能性としては高かった。
すぐ鉄道会社に問い合わせようと思ったが、その時点で時刻はすでに23時半。受付が終了していることは明らかだった。諦めきれず「鉄道会社名 忘れ物」で検索してみる。それによると、確かに電話での受付時間は9時から20時までの間だが、今の時間、自動のチャットボットで落とし物の詳細を先に伝えておくことが出来るらしい。

チャットボットが尋ねてくる内容に従って、連絡先、財布の特徴、利用した路線などを入力していく。時間外であってもこうした機能で、一応の「事態が進展している」感が得られたこと、またチャットボット(電車のキャラクターであった)が、落とし物をした人を慮った、優しい語り口であったことが良かった。自分でも単純だと思うが、それだけのことで少し不安が和らいだし、それでクレームみたいなことを言う人も減るのかもしれない。よく考えられているなと感心した。

出来ることはやった。そう思って今日は寝ることにする。明日が在宅勤務なのが救いだ。出社日ならばとりわけ気もそぞろだったろう。静かにしていると色々考えてしまうので、その日はイヤホンで音楽を流しっぱなしにして寝た。

翌日。受付が開始される9時になり、結局待ちきれなくなって、鉄道会社の忘れ物センターに連絡する。回線が混み合っているというアナウンスから30秒ほどで担当の女性に繋がった。昨夜チャットボットに忘れ物の詳細を入力したことを伝えると、その情報をもとにすぐに捜索に移ってくれた。とてもスムーズだった。

結果から言うと「残念ながら現時点、該当の財布のお預かりはありません」という回答だった。受付の女性は終始丁寧で、不安な気持ちに寄り添うような対応をしてくれた。特に夜遅い電車だったということもあり、すでに見つかってはいるが、まだ報告がされていないだけの可能性もあるとのこと。そしてもし見つかればすぐに連絡をくれると約束してくれた。

とはいえ、ここで見つからなかったショックは大きかった。落としたと気付いた時から、もう財布は戻ってこないものと考えるようにしていたつもりだったが、いざこうなると思っていたよりもキツい。やはり心のどこかで期待をしていたらしい。甘かった。とりあえず今は仕事に集中して、期待し過ぎず発見の連絡を待つことにした。

状況が大きく動いたのは14時半頃。きっかけは同僚からのメールだった。某都道府県警から会社に電話があり、私から折り返し連絡がほしいとのことらしい。メールをくれた同僚へ感謝と、私が犯罪行為に巻き込まれた心配がないことを伝え、すぐにその警察署に連絡することにする。

電話を掛けてきてくれたのは、会計課の男性の警察職員だった。簡単に挨拶を済ませた後、向こうから財布や落とし物というワードを出すことなく、何か心当たりはありませんかと尋ねてきた。私は昨日、財布を落としてしまったこと、そしてその財布はこのようなものであったと特徴を具体的に伝える。男性職員はそれらをすべて聞き終えてから、それに該当するものが警察署に届いていますと穏やかな口調で教えてくれた。財布内に入れていた名刺を見て、会社に連絡をくれたらしい。

財布の受け渡しは平日の16時半まであること、その際、氏名、現住所が確認できるものが必要なこと、保管は3週間しか出来ないことなどを簡潔に教えてもらう。また届けてくれた方へのお礼についても、その時に伝えますとのことだった。

電話を終えた時点ですでに15時を過ぎていた。今日が金曜日。警察署への道のりを調べると、今から出ればぎりぎり間に合うぐらいの距離だった。勤務時間中でもあるので迷ったが、移動中もタブレットで仕事を続けるからセーフという手前勝手な理論で自分自身を納得させ、すぐに取りに向かうことに決める。外に出ると雪がちらほら降っていた。

電車を乗り継ぎ、16時15分頃に警察署に到着する。電車賃の支払いは、財布とは別にしていたICカードで行なった。忘れ物の受付に向かい名前を伝えると、電話の男性職員が出てきてくれた。言われた通り、住所と氏名が記載されたもの(ハガキを持参した)を提示する。確認の後、奥の引き出しから見覚えのある財布が男性職員によって取り出される。紛失してから17時間での再会であった。

幸運にも、財布の中身は現金にもカードにも身分証にも一切の不足はなかった。受け渡しの際に受領書にサインをする。そこには現金と金券類の総額、カードの枚数、氏名、住所、会社名など、その財布から分かり得るすべての情報が記されていた。

続けて、届けてくれた方のことについて教えてもらう。その方が警察署に来られた際に警察書式の用紙に書かれた、直筆のメモをもらった。そこにはその方のフルネームと携帯電話の番号が書かれており、お礼の連絡、やり取りは当人間で行うこと、お礼の相場は所持金の5〜20%ほどであることなどを説明してもらう。受領書の備考欄に「御礼致します」と一筆添え、その受領書のコピーを、警察から届けてくれた方に送ることを了承し、警察署を後にした。

男性か女性か分からないフルネームかつ筆跡だったので少し緊張したが、帰宅後すぐにお礼の電話をする。出たのは若い女性だった。ひと通りの感謝の言葉と警察署から財布を受け取った旨を伝える。お礼の仕方については対面して直に言うのが礼儀だとは思ったが、新型コロナウイルス感染症が拡大していることも鑑み、相手方了承の上、週明けに郵送にてお送りすることとなった。

お礼については、菓子折りやギフト券なども考えたが、シンプルに現金を書留で送ることにする。金額を決めるのは難しかったが、所持金の20%に少し色を付けたぐらいのキリの良い数字にした。添える手紙を考える。直筆の手紙など何年ぶりだろう。出来ているかは分からないが、大人としての礼節は守りつつ、感謝の気持ちが素直に伝わるよう心掛けたつもりだ。

通常出社の月曜日。こっそり休憩時間に会社を抜け出し、郵便局で諸々の発送手続きを完了させる。これでひとまずやるべきことは出来た。メールをくれた同僚にもきちんとお礼をした。親切な人たちに恵まれて良かったと、戻ってきた財布のお金で買ったコーヒーを飲みながら改めて思う。これはこれで良い教訓だ。

数日後、また雪が降った。外出しようと思い、玄関口で傘を探すが見当たらない。最近使った場面を思い出す。そう言えばあの時。財布を受け取りに持って行ったきり、警察署の入口に置いたままになっている気がする。財布が戻ってきたことに夢中で、手ぶらで帰ってきたことにも気付かなかったらしい。愚かさとの闘いはこれからも続く。

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