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水木しげるに招かれて

先月の初めに横浜で再び水木しげるの展覧会を見て以来、ここ一か月、「異様」と思えるレベルで、水木しげるの名前を偶然に聞き続けた。映画がヒットして鬼太郎に注目が集まっている、ということを抜きにして、だ。

まず、展覧会を見た日の夜、夢の中に「謎の老マンガ家」が現れた。しかもそのマンガ家、水木しげるが亡くなった年齢と同じ、93歳だと言っていた。

イベントに出店すれば、水木しげるに特化した古本を売るブースがあったうえに、僕の目の前に鬼太郎のかばんを持った人が客として現れた。鬼太郎のかばんを持てる人なんて初めて見た。

テレビを見ていれば、辞書作りをテーマとしたドラマ「舟を編む」で、辞書における「水木しげる」の項目をどうするかで一話丸々使っていた。

あまりにも「水木しげる」を目にすることが多いので、人に話したところ、「調布に住んでた時、水木しげるを見たことあるよ」というまさかの目撃情報まで飛び出した。まあ、片腕だから、町にいたら目立つよなぁ。

これぜんぶ、ここ一か月のお話。

そしてカレンダーを見て気づく。夢に「謎の老マンガ家93才」が出てきてから約一か月後の3月8日は、水木しげるの102回目の誕生日である。

これはもう、この日に調布へ来い、ということなのではないか。

というわけで、3月8日に調布へと行ってきた。京王線に乗り、新宿から「臨終」、「火葬場」、「骨壺」と……、おっと、これは鬼太郎の初期の名作「幽霊電車」の駅名だった。

さて、調布の駅に到着。とはいえ、正直な話、調布に来たからと言って別に何があるわけでも……。

いや……。

この街には、水木しげるがマンガに書いてきた風景が、まだ残っている。妖怪がまだ残っている。なんだかそんな気がする。

都市部でありながら、どこか奇妙なさみしさをたたえ、かといって決して嫌な感じではない、不思議な何か。

ひょっとしたら、水木しげるが暮らし始めて昭和の時代から、そんなに風景が変わっていないんじゃないだろうか。下石原の甲州街道沿いなんて特にそんな印象を受ける。

やっぱりこの街にはまだ、妖怪がいるんじゃないだろうか。

水木しげるは半世紀近くを調布で過ごした。その途中で鬼太郎が大ヒットしたのに、どうしてもっと都心に引っ越さなかったのだろうか。水木しげるは神保町によく通っていたという。どうしてもっと神保町の近くに引っ越さなかったのか。

やっぱり、都会でありながらどこか妖怪のいそうな雰囲気をたたえたこの調布の街が気に入っていたのではないか。水木しげるは現代の都市じゃ妖怪は棲みづらいと言っていたけれど、それは水木しげる自身もそうだったんじゃないだろうか。「収入が上がったから都心に引っ越す」という考え方とも一線を画していたようにも思える。

調布の不思議な雰囲気を堪能して、帰りの電車に乗りながらふと考える。

水木しげるの暮らした調布。

柳田國男の暮らした成城。

宮本常一の暮らした府中。

それぞれ路線が違うから今まで気づかなかったけど、民俗学に強い関心を示していた彼らが暮らした町は、実は多摩川沿いに並んでいるのだ。

多摩川沿いで、国分寺崖線が走り、都内有数の古墳の多い場所でもあるこの一帯を、勝手に「民俗学多摩川グランドライン」と呼ぶことにして、僕は調布を去るのであった。

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