内なる冷笑家「こんなことやってなんになる」への対処

気づいたことがあったのでこれを書いている。

ゲームをしていても、楽器を演奏していても、ただ生きていても、
「こんなことをやって(続けて)なんになる」
と内なる冷笑家が囁くことがある。

こうされると、途端に全てに白けてしまう。
ゲームなんか何にもならないし自分の年齢で真剣にやることか、とバカらしくなる。
楽器を演奏していても、どうせ憧れていたプロにはなれないという現実を突きつけられる。
生きていることも同じ。こんな毎日を続けて何になる。いっそ死んだ方がいいのではとまで思う。どうせ死ねない。そこまで込みで失望する。

ぼくは文筆家として趣味の期間を合わせて10年ほど活動してきた。後期はフリーのwebライターとして細々と食べてきた。
が、ある時謎の異変で文章が書けなくなった。眠れなくもなった。医師にかかったら適応障害の可能性があるというところから始まり、今は双極性障害と診断され年金まで貰うようになった。多分ストレス過多の中で働きすぎたのかも知れない。書けないことほど強いストレスはなかったが。

それ以降、内なる冷笑家と付き合い続けている。この冷笑家とも付き合いが長くなってきた。そしてだんだん対処法が分かってきた。

一言で言うと「期待不足」である。

ゲームをしていたのは欲しい装備があったからだ。楽しく集まれる仲間がいたからだ。目的があって最初からやっていない。
楽器を演奏していたのは、憧れたミュージシャンの真似っこだった。真似も真似なりに続けているうちに曲が書けるようになっていた。
生きることもそうだ。目的意識を持たずにやったことが面白い出会いにつながることもあった。

冷笑家は焦っている。金に、恋に、友人に、名声に、寿命に、焦っている。
だから執拗に目的をせびり取ろうとするのである。

だが、せびろうとした先に目的などない。だから何も得るものがなく冷笑家はいつも落胆している。

その落胆を、わざわざ僕が背負ってやることもないのだ。なんとなく生きてもいいのに、それを許さないのは焦りのあまり期待不足に陥っているからだ。

夢や希望を持とうという話ではない。その逆である。
夢も希望も持たずに、ちょっと散歩するようにその物事をやってみても全然いいんだよ、というだけのことである。多くの散歩に目的はない。

これに気付いたとき、僕は肩の力が抜けて思わず笑ってしまった。ないものねだりならまだ可愛いが、ないものを自分自身からゆすろうとしていたのである。馬鹿馬鹿しすぎて笑える。

しばらく文章から離れた生活をしていたが、また文章を書いてみようと思っている。この日記だけで、1,000字も散歩できたじゃないか。

2023/07/30 knowsagi

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