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今日は一度も会ったことのないおっちゃんの葬儀に参加した。
わたしにとっては初めての経験。連れていってくれた上司が、うちが関わる中では一年半ぶりに出てしまった路上死だと言っていた。
無縁仏は通常、火葬場直行、骨はスペースがなくなれば処分されてしまうらしい。
だからわたしのいるNPO団体では葬儀をして、お骨を引き取るというのをやっている。こういうところが好き。

団体とおっちゃんの付き合いは10年以上になる。結局、住宅に入ろうよというこちらの誘いには乗ってくれずじまいだったらしい。二週間に一度の夜回りで、たまに会えたときには話してくれ、時には弱音も吐いてくれるという関係。にもかかわらず、おっちゃんについてわかっている情報は名前と生年月日だけだった。
同じ場所でかつて野宿してたというおっちゃんも参列していた。本人とは「そこまで思い出はない」と、弔辞はあっさりと終わった。出棺のときには、火葬場には行かず「このまま帰る」と言い張り、皆がそんなつめたいこと言わんでよ〜という顔でしばらく見つめた。おっちゃんからやっと「さみしくなるけん、ここでお別れ」とこぼれた。その泣き出しそうな背中を目に焼きつけた。



わたしは今日、朝からずっと怒っていた。
大きな影響力を持つ人が、注目を集めたいためなのか、ホームレスや生活保護という状態について「辛口」発言を撒き散らした。文字にもしたくないくらいの浅はかさだった。
日本では「貧困は自己責任」という空気が強いけど、実名で活動する人では近年稀に見るほどのヘイト発言じゃないだろうか。さすがにあれをそのまま肯定する人はそう多くないといえばそうだろうけど。
生活保護は要件が厳しすぎる部分があるために、明らかに保護を受けるしかない状況にもかかわらず、「生保だけは」と拒否する人は多い。みんな自分の尊厳とぎりぎりのとこで闘っている。
そもそも社会保障を享受するのに尊厳が損なわれなきゃいけないのがおかしいんだけど。
本人の決心がつくまでただつながり続ける、という支援の仕方しかないこともあるということをこの半年で目の当たりにした。意思を尊重しつつもサインを逃さないようにするのは、すごく神経を使うことなんだと思う。
あれはこの自己責任の空気をさらに強固にする危険性が強くて、いろんなひとの気持ちや尊厳を踏みにじるものだ。
支援の現場に来てやっと半年という程度のわたしですら、でかくてびかびかと光るブルドーザーに、みんなで積み上げてきた大事なものを真っ平らにされたような気分になった。これを見てしまったら○○さんはどう思うだろうと何人かの顔が浮かんだ。


怒っていたし悲しかった。切り替えようとしたけど、業務中もじっとりと重かった。
でも、そんな最悪だった今日に光がさした。路上で生きる人を大切に思う人たちがこんなにいると、見せつけてもらえた。頼もしかった。

家がなくても、働いてなくても、重い罪を犯したとしても。そして浅はかな言葉でたくさんの人を傷つけたとしても。
しんだ方がいい人間なんて一人もない、と本気で思う一人であり続ける。

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