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「人生が永遠なら退屈」とは思わない

最近読んだ本の「もし人生が永遠に続くなら、人生は退屈なものになる。命が貴重なものではなくなり、時間を大切に使いたいとは思わないだろう」という考え、全然そう思わない。

まず「人生が永遠に続くなら人生は退屈なものになる」については、普段の生活でことさら自分の「寿命」とか「死」とか「時間的制約」「終わり」をそれほど意識していない(つまり感覚的には永遠っぽい)けど、退屈どころかやりたいことはいくらでもある。

(人生が永遠でやりたいことを全部やり終えたそのときは退屈なのでは?という疑問があるかもしれないけど、人生の有限性を問わず自分と世の中が変化し続ける限りやりたいことがなくなることはないと考える)

またいまの生活にもとづいた感覚的な考えではなく、実際的に考えた場合、人生が永遠に続く存在としてメソポタミア文明に生まれて現代まで生き、自分自身の変化も世の中の変化も見続けたとしてそれ以上面白いものがあるだろうか。地球に生まれるという前提でこれ以上面白いものは到底存在しないと思う。それはいまの時代に生まれてこれから2,000年生きるとしても同じことだ。退屈になることなどありえないと思う。

人生が退屈になるかに時間的有限であることの相関性はそこまで大きくないと思う。人生が有限であるかにかかわらず、自分も、自分が見る世界も変化し続けるためだ。人生を退屈にするかどうかを左右するのは、世の中に対する自分の姿勢だと思う。

次に「人生が永遠に続くなら命が貴重なものではなくなる」も違うと思う。そもそも命はそれ自体で価値がある。また有限性に価値を見出す考えは自然なものとしてわかるが、有限性だけが価値ではない。人生が永遠になることは、有限性における価値は失われるかもしれないが、むしろ長く生きて成熟しアップデートし続ける、固有の経験を積み重ねる点で、むしろ単なる有限性にはない大きな価値を獲得し続けると思う。

最後に「人生が永遠に続くなら時間を大切に考えたいとは思わないだろう」にも異を唱えたい。時間の使い方は時間が限られていようといなかろうと重要な問題だといえる。

なぜなら、人生が永遠であったとしても、いまの自分はいましかないし、いまの世の中はいましかないからだ。その点でいえば人生が永遠でも「いまの自分」や「いまの世界」はつねに有限であり続ける。自分も世界も(瞬間的には)有限でつねに変化し続けるから、「何事もいつでもいい」とはならない。

600年を生きて600年分の経験を積んでそこから形成された価値観を持つ自分と、700年を生きて700年分の経験を積んでそこから形成された価値観を持つ自分では、同じものを見たとしても何を受け取るかが変わるだろう。

またスマホがなかった時代とある時代でも状況は大きく異なるだろう。人生が永遠でも、スマホがなかった時代を繰り返すことはできない。

むしろ永遠だからこそ「いつやるのか」がより重要になると思う。人生は永遠ではあっても可逆的ではない。あらゆるタイミングは一度きりである。

だから、有限であることで時間の大切さが損なわれることはない。むしろ時間が永遠にあるからこそ、いかにその時間を生きるかに重きが置かれ、磨きがかかると思う。

今回は漠然と3つのことについて考えたけど、「人生が永遠になる年齢」「人生が永遠になる人の対象」「人生が永遠になることの世の中への影響」「そもそも人生が永遠とはどういう種類の不死か」など諸々を考慮していないので、そのあたりも楽しく考えたい。

わたしの考えでは「人生が永遠だったら」にはポジティブなイメージが大きい。個人的には「永遠になったら退屈するかも」「命が無価値になるかも」などの心配は一切してないので、人生を永遠にするための方法を研究している方々にはぜひ頑張ってもらいたい。テロメアを修復できるようになりますように。

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