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信州のレオナルド・ダ・ビンチ:「松下村塾」の源は信州上田の「多聞庵」の「活文禅師」に行きつく

(はじめに)


現在、ほとんど一般に知られていないのですが、江戸の末期、信州上田にレオナルド・ダ・ビンチのような万能の天才がいました。それは、上田の毘沙門堂で私塾「多聞庵」を開いていた「活文禅師」です。私も長く上田に住んでいても知らなかったのですが、この人のことを知れば知るほど、信州のレオナルド・ダ・ビンチと言って過言ではないとの思いを強くしました。なぜなら、和漢蘭の三分野に通暁しており、ここ「多聞庵」で中国語(清国語)、蘭学(天文学、数学)、詩歌、書、彫刻、一弦琴など多種多様な学問を一人で教えていました。そして全てが当時の最高水準だったのです。

1. 偉大な教育者活文禅師とその教え子たち

そして、偉大な教育者でした。そのため近隣から多くの俊英がこの活文禅師の学徳に吸い寄せられるようにして、ここに来て学んでいます。教え子は千人余りもおり、その中に、佐久間象山、赤松小三郎1)、高井鴻山等がいます。佐久間象山は、松代から上田まで六里(24km)の山道を馬で通い、ここで学んでいます。後に江戸に出て私塾「象山書院」を開き、吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬、小林虎三郎等を教えています。その中の吉田松陰は、皆さんご存知のように、後に「松下村塾」を開き、伊藤博文や高杉晋作を教えたことで有名な人です。また小林虎三郎は後に「米百俵」で有名になる人です。また、赤松小三郎は、オランダ語と英語に堪能で、京都薩摩藩邸で英国式兵法を講義し日本の軍隊の近代化の礎を作った人です。英国歩兵練法の訳語、「右向け右」や「前へならえ」などは、今も体育の授業で使われています。また、赤松小三郎の教え子に、日露戦争の英雄東郷平八郎がいます。詳しくは別項の私の随筆「赤松小三郎の碑の疑問」1)をご覧下さい。また、高井鴻山は、維新後長野県を教育県にせよと最初に唱えた人です。小布施の豪商で維新前は北斎のスポンサーとなった人です。この高井鴻山も江戸と信州に私塾を開いています。このように活文禅師の弟子達は皆、後に自ら私塾を開き大いに日本の近代化に貢献しています。活文禅師はまさに偉大な教育者と言えるでしょう。 

2. 信州上田の私塾多聞庵は、長岡藩の米百俵や長州藩の松下村塾の源流


 このように幕末の、長岡藩の「米百俵」の逸話や長州藩の「松下村塾」に代表される私塾教育が、日本の近代化に大きな役割を果たしたことは疑う余地がありません。この源をたどれば、すべて信州上田のこの活文禅師の「多聞庵」に行きつくのです。弟子達は皆、教育が今後の日本の礎を築くと各地で教育の重要性を説いています。
 中でも、明治初期の長岡藩における小林虎三郎の「米百俵」の話は象徴的で、最近(2002年)も小泉首相が所信表明演説で取り上げて大いに話題になりました。明治維新成功の基礎は、幕末から明治にかけて既に高い水準に達していたこのような教育と教育に対する高い意識が、既に日本にあったからのです。この当時、アジアの諸国の中で西洋列強の植民地に日本だけがならなかったのは、この教育重視の姿勢があったからだと思います。

3. 多聞庵境内にある二つの碑、「鳳山禅師追福之碑」と「龍洞鳳山禅師碑文」


 この活文禅師が亡くなって、八十年ほど過ぎた昭和の初期、上田市の常田(ときだ)地区の方々が、禅師が大教育者であったことを顕彰するために、ここ毘沙門堂に碑を建てました。境内には、二つの碑、「鳳山禅師追福之碑」(2)と「龍洞鳳山禅師碑文」(3)があります。
 2つとも昭和3年に常田地区の有志の方々の募金で建てられています。追福之碑は、漢文書下し文の名文で、読んでみると、大教育者の人格を彷彿とさせ、大変感動します。下に写しを載せますので味わってみて下さい。また、もう一つの碑文、禅師碑文には何と佐久間象山の直筆の篆額(篆字による表題)が揮毫されています。こんな目立たない所に幕末の偉人の直筆があるなんて、何で今まで知らなかったのだろうと、悔やむほど感激します。ここ信州上田の「毘沙門堂」はもっと有名になってもいい所だと思います。

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写真1:龍洞鳳山禅師碑:碑文は漢文で、活門禅師の事跡を表している。

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写真2:石碑上方にある佐久間象山の直筆の篆額:碑文末尾に「碑ノ表面ナル篆額ハ活文禅師ニ師事セシ象山佐久間先生ノ揮毫セラレタルモノ也」とある。

4.  したがって、信州上田の多聞庵は全国的にもっと評価されてよい


 毘沙門堂入口脇に、戦後の上田市教育委員会による、史跡指定の説明文が建っていますが、文中にここを単なる「寺子屋」としているところが、大いに誤解を招いているのではないかと私は思います。佐久間象山や赤松小三郎等を輩出しているほどの、学識を授けた場所を、単なる「寺子屋」では誤解されて当然ではないでしょうか。「鳳山禅師追福之碑」2)には、「常田ノ毘沙門堂ハ即チ先賢問道處ト称スヘキナリ」とあり、和学漢学蘭学を教えた「松下村塾」のような私塾で「先賢問道處」あるいは「信州の松下村塾」と、説明文を訂正すべきでものと思いますが、皆さん如何でしょうか?
 おそらく、小さい子供相手に習字を教えているだけの所でしたら、現在の単なる学習塾と変わらず、寺子屋でも別段おかしくはありません。しかし、活文禅師はここで、中国語(清国語)や蘭学(天文数学)をも教えていますので、現在の大学生や大学院生のレベルの青年も一緒に教えていたのです。また、後に大工の棟梁となる竹内八十吉も、ここで活文禅師から彫刻を習い、幕末から明治の初期にこの地方で多くの神社仏閣を建て、そこに見事な彫刻を施しています。現在多くが県宝に指定されています。さらに、活文禅師は一弦琴の名手でもあり、その教えが脈々と続き、現在も上田で一弦琴を弾いている方々がいます4)。工芸も音楽も超一流であったということです。従って、活文禅師は信州のレオナルド・ダ・ビンチだ、と言う私の表現も決して誇張ではないと、皆さんに信じて貰えるものと思います。

(おわりに)


 日本全国の皆さん、一度、ここ長野県上田市常田の毘沙門堂の「多聞庵」を訪れては如何でしょうか。
 
 
参考文献
1)赤松小三郎がここ毘沙門堂で習っていたとの、小三郎を扱った伝記を、私は見つけることは出来ませんでした。しかしながら、インターネットは偉大です、上田市文化財マップなどのホームページには赤松小三郎がここで習っていたことがちゃんと出ています。  http://museum.umic.ueda.nagano.jp/map/html/dot66.html
http://museum.umic.ueda.nagano.jp/map/html/dot68.html
http://youyou.avis.ne.jp/go/town/ueda/bisyam.htm
2)「鳳山禅師追福之碑」の碑文は下記の通りです。但し、平仮名は、碑文の中では全てカタカナで表されています。
 
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                鳳山禅師追福ノ碑
 
水を見て源を思う我信州近世の偉人に佐久間象山あるを知る者は更に象山の師に鳳山禅師あるを思わさるへからす禅師名は活文字は鳳山竹庵と号す松代藩士森粂七の次子なり十歳にして小縣郡和田村信定寺に入り同郡禰津村に転し勤苦年を累(かさ)ぬ又後長崎に赴き留学七年禅法を修め唐音を習ふ其後江戸に至り侯伯士人と交り山林を以て修法の處とし都邑を以て廣交の地と成す後信山に帰り信定寺の住職となる文政二年(一八一九年)青木村龍洞院に転住し同七年(一八二四年)退きて岩門村大日堂に閑居し更に常田村毘沙門堂に移る時に年知命(五十歳)を踰(こ)え其学徳圓熟す遠近就きて学ふ者一千余人に及ふ或は経学を講し或は文学を説き或は書道を伝ふ禅師の人に教ふるや其の年齢学力志望によりて諸班を作り師を環して座せしめ師は中央に在りて輪講し教授法の妙を極む門下に佐久間象山高井鴻山山寺常山等あり象山最も傑出す禅師の象山に教ふるや大に用意し書を講し特に対談啓発に努む象山方(まさ)に元気旺盛の青年にして師恩に感し厚く弟子の礼を執る天保十年(一八三九年)象山再ひ江戸に遊学するや故郷を辞せる第一夕禅師を常田に訪ひ歓談応酬の情甚だ深し象山東遊紀行の詩之を叙して頗る詳なり常田の毘沙門堂は即ち先賢問道處と称すへきなり禅師は性活淡無慾酒を好み詩文に長じ書を能くす甞(かつ)て自ら詠して曰く名是清貧字大愚非僧非俗又非儒と亦以て禅師の風格を窺ふこと得へし弘化二年(一八四五年)七十一歳を以て歿す遺骨を分ち一は龍洞院に葬り一は毘沙門堂に納む今年歿後八十余年を過く常田の人碑を建て堂内の遺骨を碑下に埋葬(?)[碑文では死の下に土という字]せんとして碑文を余に属す余文の拙なるを忘れ其の需(もとめ)に応す是れ鳳山象山師弟情誼の厚きを思ひ且つ地方有志者禅師追福の誠意の切なるを感したるを以てなり
 
従三位勲一等 小松謙次郎篆額
従四位勳三等文学博士 中村久四郎撰
            田代其次書
         高崎市藤澤群黄刻
 
(碑裏面)昭和三年(一九二八年)十一月
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3) 「龍洞鳳山禅師碑文」の碑文は下記の通りで、漢文の白文です。文中(?)の付いた漢字は、浅学にして十分読み取れず不安の残る字です。識者の御教示を請います。
 
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       龍洞鳳山禅師碑文    水戸小納戸兼侍読菊池貫撰文并書
 
子夙以文卒承知於長島候雪斎君ゝ好詩章善書画文愛客以故都下人士争執謁其門一日在座観禅僧形貔俊変音吐宏暢論君以清音誦大学経一章詩之周南唐詩数首其聲琅ゝ乎充耳恍惚如夢遊果境又興吉人相問語衆賓沓英不感聴賞歎者矣予驚問其故曰松代士森氏子幼而歸佛者周流四方遊會於此也予深異之遂容交稱方外友乙已之秋上田商人来告曰鳳山之徒葬鳳山如法以碑文為請予聞之哀冩(?)追念往時距今既四十六季矣不復審其為何状也今乃葯異物何亦拒共徒之處(?)請師名活文字鳳山號緑竹庵方十歳歸曹洞信定寺僧祖眼削髪為僧後受具戒於上毛補陀寺絶海上定律院勤苦多年其法頗修毎思欲得天下之善知識為友即辞絶海西遊瓊浦謁大徳寺實門修法之暇学清語譯官神代薬(?)者誦読儒書作為詩文見清人陳晴山孟渙九将傳清音之真享和文化之際往来江戸造雪斎君巣鴨里之耶即神齢山之掬翠軒静忠為鳳山既得将資入瑞聖寺咨問法要又廣交都下名流従柴栗山岡赤城遊学琴曲於兒玉空ゝ翁退而吟詠撫弄陶然以為娯屡延雪斎君子其居盖以月望為期雪斎君甞顧其山之幽邃樹之陰翳曰積翠可掬ゝ翠之名起馬予率爾応之曰山僧也太守也亦甚類醉翁故事惟恨主客之錯耳鳳山笑曰山林者吾修法之處(?)也都邑者吾廣交之地也子寧不快於我乎吾圓顱方袍而亦甞問儒者之道且我之處(?)以来於此者将以窮天下之衆妙而達不二之本源也盡領其意而畧其礼於是親益深矣及祖眼卒還住持本寺傳法人假領越之永平寺朝拝 京師實佛者之榮尋徒龍洞院晩造室予常田郷隠冩(?)號曰多聞庵弘化乙巳五月二十八日卒距生安永乙未閏七十一年矣其徒修禅理通清語学写字者数百人相共議作壙子龍洞之陰且立碑多聞葬銘之銘曰 嗚呼文師傳燈維持夙修禅規妙悟毘尼華招提飛錫邊隠遷化有時七句一期方墳之埋圓身之歸舎我記誰衆論何辭
 
(裏面)
碑ノ表面ナル篆額ハ活文禅師ニ師事セシ象山佐久間先生ノ揮毫セラレタルモノ也
 
昭和三年十月
長野縣史蹟名勝天然記念物調査主事 八木興一郎識
 
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4)翠川ケイ(大の下に圭の字)子著「佐久間象山の師 活文禅師と一絃琴」2000年5月
 
 
 
*なお、冒頭の写真は、長野県上田市常田区毘沙門堂の入口から、多聞庵をとったところです。入口右手の石碑「指定保存史蹟 毘沙門堂門阯 長野縣」の書は、上田蚕糸専門学校の初代校長針塚長太郎の筆によります。
 
平成16年(2004年)6月13-14日 随筆
平成20年(2008年)2月26日 修正
令和5年(2023年)9月13-14日 加筆


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