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なぜ、富岡製糸場と上田蚕糸専門学校ができたのか

(はじめに)

令和元年(2019年)9月25日水曜NHKBSプレミアム 午後8時00分~ 午後9時00分「めざせ!徳川近代国家 小栗上野介の夢と挫折」を、見て気づいたことがあります。明治時代に、なぜ、富岡製糸場と上田蚕糸専門学校(信州大学繊維学部の前身)ができたのかが、小栗上野介の関係からわかりました。以下興味深い歴史をご一読いただければ幸いです。

(1)何故、群馬県に富岡製糸場が、長野県に上田蚕糸専門学校があるのか

 それは、今から150年以上前、明治維新直前の幕末のころの日本の歴史に、大きく関係しています。皆さんよくご存知のように、江戸幕府は、安政元年(1854)年から次々と西洋列強と通商条約を結び開国しました。幕府のエリート官僚であった小栗上野介は、1860年にアメリカを視察して、日本には製鉄所、造船所が近代化に不可欠であることを悟りました。帰国後、小栗はフランスの技術を導入して造船所を横須賀に作ることにしましたが、その費用は莫大であり、これを幕府は今までの収入からでは到底賄うことができませんでした。そこで小栗は、妙案を考え出しました。それは、この費用を、賄うため、日本全国の生糸を幕府専売として、フランスに輸出することにしたのです。当時、フランスは生糸織物業が一大産業でしたが、蚕の伝染病により壊滅的な被害を受けていました。そこで、フランスは日本の生糸を輸入して、この危機を乗り越えようと考えていました。小栗のアイデアはちょうど世界の情勢とあっていたのです。こうして、横須賀に日本最初の鉄鋼船の造船所の建設が始まりました。しかし、幕府が倒れた後、幕府のエリート官僚であった小栗は、新政府により慶応4年(明治元年:1868年)上州水沼川原で斬首されてしまいました。小栗には罪はなく、あまりの切れ者の小栗を新政府が恐れたからだといわれています。のちの昭和7(1932)年地元の有志等によって、終焉の地に「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」と刻まれた碑が、建てられといいます。
 ところが、明治維新政府はこの小栗発案の幕府の事業を引き継ぎ、明治4年に横須賀造船所を完成させました。ここに、日本の近代化の嚆矢があったのです。このように日本の近代化の費用は、幕末から昭和の初めまで、生糸の生産と輸出によって賄われていたのです。蚕種(蚕濾紙)および生糸の生産は、上州と信州が全国の約半分を占めていました。その蚕業発展の基礎とするため、上州(群馬県)には、現在世界遺産の、フランスから技術を導入した富岡製糸場が建設され、信州(長野県)には上田蚕糸専門学校が建てられ、近代的な西洋の知識を有するエリート人材の育成を目指したのでした。

写真1:世界遺産富岡製糸場のホームページhttp://www.tomioka-silk.jp/tomioka-silk-mill/ から引用させていただきました。

写真2:富岡製糸場、工場内の様子。世界遺産富岡製糸場のホームページhttp://www.tomioka-silk.jp/tomioka-silk-mill/ から引用させていただきました。

(2)信州大学繊維学部の歴史

「信州大学繊維学部」の前身の「上田蚕糸専門学校」は、1910年に旧制帝国単科大学の一つとして創立されました。現在、多くの日本人が誤解していますが、戦前の「上田蚕糸専門学校」は、戦後の学制による専門学校や高等専門学校とは全く別物であり、戦前の専門学校は、総合大学(university)に対する単科大学(college)の位置づけでした。明治政府は、フランスの高等教育制度、Université(ユニベルジテ)とGrands Ecoles(グランゼコール)という2本立ての制度をまねて、日本にも東大や京大などの総合大学(ユニベルジテ)とは別に、各種の専門性を持つ単科大学(グランゼコール)を作ったのです。フランスのグランゼコールはナポレオンによって創設され、工学や、土木、化学、教育、政治などをそれぞれ専門とする単科大学として作られました。翻って、明治43年3月26日勅令第66号の法令「文部省直轄諸学校官制」によれば、そのフランスのグランゼコールに相当する日本の諸学校として、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)などとともに、上田蚕糸専門学校(現在の信州大学繊維学部)がつくられています。このように、他の諸学校と同じく「上田蚕糸専門学校」も、国家の大きな期待のもとに蚕糸専門の単科大学(College)として創設されていることがわかります。従って、「上田蚕糸専門学校」は旧制帝国単科大学の一つとして創立されたのです。
 1945年に終戦を迎え、1949年に、信州に別々にあった高等教育機関とともに、「上田蚕糸専門学校」は合併して、国立大学信州大学繊維学部に改組されました。繊維学部では、科学、工学、農業、および医学をカバーする分野横断的な基礎の上で、研究と教育を行っています。現在、日本で唯一の繊維科学の学部としての独自の地位を築いており、学部は、国内外の研究機関と協力し、世界をリードする多様な研究および教育プロジェクトを推進しています。この「上田蚕糸専門学校」も、源をたどれば、江戸幕府高級官僚の小栗上野介の発案にいきつきます。

(おわりに)

多くの日本人の方々に、なぜ、富岡製糸場と上田蚕糸専門学校ができたのかを知って頂き、小栗上野介の功績をぜひ再評価していただきたいと思います。

写真3:信州大学繊維学部(旧上田蚕糸専門学校)講堂:登録有形文化財。

写真4:信州大学繊維学部(旧上田蚕糸専門学校)講堂:文化庁による登録有形文化財の説明

写真5:登録有形文化財の銘板

写真6:講堂の正面にある、大正8年(1919)昭和天皇が皇太子時代にお手植えのヒマラヤスギ。
ちなみに、全国の大学で、このように昭和天皇が皇太子時代にお手植えされた樹木は、私が調べた限り6か所ありますが、大木になって今も大学のシンボルになっているのは、次の3か所:

・この信州大学繊維学部のヒマラヤスギの大木
・鹿児島大学正門わきにある銀杏の大木。大正9年(1920年)、当時皇太子だった昭和天皇が農学部の前身、鹿児島高等農林学校(ここも日本版グランゼコールの一つ)に行啓、植栽された記念樹、
・台湾台南市成功大学のガジュマルの大木。昭和天皇(皇太子時代)大正12年(1923年)にお手植え。台湾は当時日本領でした。戦後も、台湾の京大と言われている成功大学では大事にされ今に到っています。


*冒頭の写真は、信州大学繊維学部の美しいキャンパスで、ひときわ美しい5月、つつじが満開のころの講堂です。


信州上田之住人和親
2019年9月29日随筆
2021年9月23日加筆

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