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戦争と平和_インパール作戦1:インパール作戦に参加した叔父大西昇

1-1:はじめに


3日前の終戦の日、テレビでNHKスペシャル「戦慄の記録 インパール」(参考文献1)を見て思い出しました。もう私が書き残しておかないと忘れさられてしまうのではないかと思い、ここに書き留めておきます。
それは、あのインパール作戦(2,3)に参加して生きて帰ってきた私の義理の叔父、大西昇のことです。私たちは子どものころから「ポンプやのおっさん」とか「のぼるおっさん」とかと呼んでいました。私の亡母の妹の夫で、香川県観音寺市の駅前通りで水道工事店を営んでいます。もう息子や孫の代になっていますが、私が子供のころは、結婚式の宴会などには面白いかくし芸を披露したりする、お酒の好きな叔父さんでした。
 

1-2:2005年山形餘目を戦友と訪問した昇叔父夫婦


 
12年前の2005年に母が亡くなり、その49日に郷里に帰った時に、母の妹のイソ叔母さんとその夫の昇叔父さんにお礼のあいさつに行きました。もう叔父さんも80を超え引退していましたが、ボケないように仲間で麻雀をしているとのことでした。その時、叔父さんと叔母さんは一緒に、先日、故あって遠くの山形県庄内町余目(あまるめ)に、行ってきたとのことでした。四国から遠い山形になぜ行ったかというと、それよりも20年ほど前に、インパール作戦から生き残った戦友と一緒に費用を出し合って建立した、佐藤師団長(4)の碑にもう一度参るためだったとのことでした。叔父さんは、佐藤師団長のおかげで生きて帰れたといいます。叔母さんは、そのとき碑の周りに集まった、白髪や禿げ頭のおじいさんたち皆が、佐藤師団長の碑を取り囲んでおいおいと泣くのを見たというのです。
 

1-3:命を救った佐藤師団長の英断


 
佐藤師団長は、こんな無茶苦茶な作戦はない。武器弾薬もなく食料の補給も全くない。兵隊が次々と餓死していく。作戦司令部にいる牟田口中将にいくら補給をしろと打電しても、現地コヒマで調達しろとか、死んだ者の服や武器を剥いで使えとか、無茶苦茶なことを言う。とうとう佐藤師団長は、このような司令部の作戦は間違っている、軍命に背き独断で撤退すると決断し、山岳地帯のコヒマから撤退をしました。しかし、大雨の降る雨季に加え、食料弾薬が全くないので、山中イギリス軍の追撃に対抗できず戦死するものや、餓死するもの、マラリヤやアメーバー赤痢で病死するものが多数出ました。道端に日本兵の死体が累々と重なり、雨と高温で腐敗し白骨となっていました。皆、目を覆う惨状から、ここを白骨街道と呼んだとのことです。体も衰弱の極みの上、装備もボロボロになった叔父さんは靴も破れ、メガネも壊れ、縄でこれらを縛って、何とか標高2000メートルの山岳地帯を降りてきました。それでも、佐藤師団長の英断で生きて撤退できた。ほかの師団は、餓死と病死でほぼ全滅の状態だったとのことです。
 

1-4:山形県余目の乗慶寺に「佐藤幸徳中将追慕の碑」を生き残った戦友と建立


 
 佐藤師団長率いる第31師団は、四国の出身者が多かったとのことです。それで、昇叔父さんも、インパール作戦に従事したのでした。軍命に違反し撤退した佐藤師団長は、軍法会議で、死罪覚悟で作戦司令部の非を明らかにする予定でしたが、司令部は作戦の失敗の責任回避のため、佐藤師団長が、発狂したからだ、お前は気ちがいだからそんなことをしたのだということにしようとしたといいます。のちの精神鑑定では、全くの正常であると診断されました。それでも、戦後もインパール作戦の失敗は隠蔽され続けました。しかし、インパール作戦で生き残った数少ない戦友たちは、費用を出し合って、昭和60年(西暦1985年)9月16日佐藤師団長の出身地の山形県余目の菩提寺乗慶寺に「佐藤幸徳中将追慕の碑」(5)を建立しました。建立したときの除幕式に、その時の町長も出席されましたが、そんなに立派な人がこの町の出身だったとは今まで知らなかったとのことでした。戦後も、長く事実が隠蔽されていて、この日四国の人々中心に建立されるまで、地元庄内町余目では佐藤中将のことは知られていなかったといいます。
 

1-5:無謀なインパール作戦の責任者はだれか


 
 NHKスペシャル(1)では、戦後イギリスが、このインパール作戦の責任者はだれかという問いに、日本の大本営の作戦指揮官は、現地の作戦司令部の責任といい、現地の作戦司令部の牟田口中将は大本営の命令だったと言ったといいます。誰も、失敗の検証もせず責任も取らない旧日本陸軍の体質を見た気がしました。我々日本人は、戦前の軍隊においても、戦後の企業経営においても、過去の失敗の原因解明と将来の改善を真剣によく検討すべきだと思いました。昨今の東芝の失敗や惨状を見て、なおさら、そう思います。
 
 

1-6:追記_秋野暢子さん白骨街道を訪ねる


 
最近、「こんなところに日本人」(2016年7月5日)の再放送で、秋野暢子さんが、ミャンマー(ビルマ)の奥地のチン州バルボン村の日本人を訪ねていく番組(6)をたまたま見ました。とにかく雨季の上に悪路続きで、番組史上、最も過酷な旅となり、がけ崩れに巻き込まれそうになったりして命の危険があったとのことです。途中の村で秋野さんが食事をしているとき、一人のチン族の叔母さんが近寄ってきて、この道は、日本人が作ったのを知っているかと問うのです。この道が白骨街道でした。今でもこんなに大変な道を、インパール作戦で、私の叔父さんはよく生きて帰ってきたものだと思いました。
 
2017年8月18日 随筆
2022年7月29日 加筆
 
*なお文頭の写真は、「佐藤幸徳中将追慕の碑」の写真です。山形県庄内町観光協会のサイトから引用させていただきました。
https://www.navishonai.jp/spot/111.html
 
 
参考文献
(1)   http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20170815
(2)   http://courrier.jp/news/archives/93860/2/
(3)   http://web.archive.org/web/20061029144506/http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/kishanome/archive/news/2006/10/20061006ddm004070075000c.html
(4)   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%B9%B8%E5%BE%B3
(5)   http://www.navishonai.jp/spot/111.html
(6)   https://www.asahi.co.jp/konnatokoroni/backnumber/20160705/index.html?fbclid=IwAR2DV2ArGj14gJKDpap5PQOdoR0MNPwRuSD4povu0EYyYxoiczSOp975p_8

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