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ユダヤ人の墓の上の小石と日本の鳥居の上の小石の意味は?

(はじめに)



皆さんの中で、どなたかユダヤ人の墓の上の小石と日本の鳥居の上の小石の意味や両者の間の関係について御存知の方があったら教えて欲しいです。このことは2010年7月にポーランドクラクフでの経験と、2000年7月の日本の長野市松代地区での経験からの質問です。妙な取り合わせの質問のようなので下に詳しく説明します。
 

1.    猛暑の中、学会主催のクラクフ市内観光


 
 私は今年2010年7月にポーランドのクラクフ市で開かれた国際液晶学会に参加しました。その3日目の7月14日午後、学会主催のエクスカーションというまあ遠足みたいな行事に参加しました。世界遺産のクラクフ市の市内観光を、旧市街の南の端から中心の広場まで、英語のガイドに従って約4時間歩きながら見て回るというものです。集合場所の学会会場のヤギロニアン大学講堂前から、旧市街の南の端でまずバスで行って、30人位ずつに分かれて数グループになりました。グループ毎に英語のガイドがつきました。私のグループには、金髪で年が25歳くらいの若いポーランド人女性のガイドが付きました。彼女に従い、英語の説明を聞きながら、歩いて市内観光をしました。
 
 しかし、その日のクラクフ市は異常に暑い日で、35度にも最高気温が達し、参加者は皆、事前の忠告に従って、水の入ったペットボトルを携え、ほとんどの人が帽子とサングラスをかけていました。最初30人あまりの参加者が私のグループにはいたのですが、このエクスカーションでは、あまりの猛暑の中かんかん照りの戸外をずっと歩いていたので、途中どんどん人がいなくなり、4時間後の最後の目的地までたどり着いたときは、約半分の15人足らずまで減っていました。次の日、イタリアボローニャ大学のザンゾニ教授に会ったので、「最初、いたのにいなくなったね!」と言ったら、笑いながら、「いやあ、暑くて暑くてじっとガイドの長い長い説明を聞いていられなかった。途中でビールを飲みにカフェに入った。」とのことでした。確かにやたらに暑かったです。ヨーロッパってこんなに暑かったっけと思いました。今年(2010年)は日本もヨーロッパも北半球はどこも異常に暑かったですね。
 
 

2.    古くからヨーロッパ最大のユダヤ人居住地


 
 さて話をもとに戻すと、このエクスカーションでは、最初、クラクフ旧市街の南端にあるカジミエジェ(Kazimierz)地区の端っこから、ガイドさんが説明を始めました。
 
「ここは、古くからヨーロッパ最大のユダヤ人居住地です。14世紀、ポーランドの王様は、このカジミエジェ地区にユダヤ人の居住を許し、保護を加えたため、ヨーロッパ中からユダヤ人が集まり、ヨーロッパ最大の居住地となりました。第2次世界大戦前には6万5千人のユダヤ人が住んでいました。ナチが占領する前までの何世紀もの間、平和裏に暮らしていました。」
 
「さて、次に向かうのは、ヨーロッパ最古のシナゴーグです。それでは皆さん参りましょう。」
 
と言って、ガイドさんは歩き始めました。
 
「ジェリー!シナゴーグってどういう意味?」
 
と私は前を歩いている旧知のアメリカハーベイ・マッド大学のファン・ヘッケ教授に、後ろから小走りで追いかけながら尋ねました。彼は振り向きながら、
 
「ユダヤ教のテンプル・お寺という意味だ。」
 
と教えてくれました。
 
 カジミエジェ地区の中心の小さな広場に着き、広場の真ん中にあるごく小さな緑地に建つ高さ120センチくらいの石碑の前で、またガイドさんの説明を聞きました。
 
「第2次世界大戦の時、ドイツのナチがこの町を占領し、ここに住んでいたユダヤ人はAとBに分類されました。Aは若くて働けるもの、Bは老人や子供などで働けないもの。Bに分類された人々はアウシュビッツなどの収容所に送られガス室で殺されました。Aに分類された人々も過酷な強制労働に従事させられ、戦後生き延びた人はわずか5%だけでした。95%の人々がナチによって民族抹殺されました。いわゆるホローコーストです。この石碑はその亡くなった住民の慰霊碑です。」
 

3.    ユダヤ人の墓の上の小石


 
私は、この説明を聞いていて涙が込み上げてきました。慰霊碑を見ると、なぜかこの慰霊碑のてっぺんには沢山小石が載せてありました。
 
「皆さん、有名なスティーヴン・スピルバーグ監督のアメリカ映画『シンドラーのリスト』を御存知だと思いますが、シンドラーは、ここでユダヤ人の命を出来るだけ助けるため、ここから200メートルくらい離れた所にパン工場を造り、ここにできる限りのユダヤ人が勤められるようにして、ナチの虐殺から人々を守りました。興味のある方は、そのパン工場が残っていますから、あとで別に訪問してみて下さい。」
 
そのあと、このガイドさんは広場の西脇にある古い建物を指さして言いました。
 
「今から、ヨーロッパ最古のシナゴーグにはいりますが、ユダヤ教の習慣のため男性は全員玄関の所で、頭に丸い布きれの帽子キッパをかぶって下さい。かぶらない人は入ることは出来ません。」
 
 これは、ユダヤ教に敬意を払うという意味でしょう。このシナゴーグはそれほどの大きさはありませんでしたが、皆、木の椅子に座って説明を受けました。ここを出て、次にこのシナゴーグのすぐ横にあるユダヤ人墓地に移動しました。そこに入るにもこの丸い布きれの帽子は頭に載せていなければいけないということでした。
 
 ユダヤ人墓地は、ほとんどナチに破壊されたのですが、ここの中の一部だけは研究のために昔の姿のままナチによって残されたそうです。戦後、破壊された墓石なども、元通り修復されたといいます。不思議なことに、墓石の上には、皆、一様に沢山の小石が載せられていました。このガイドさんの説明によると、小石を載せるのは「永遠」を意味しているということでした。でも、私はこの小石は「天国への手紙」だとある人から以前聞かされていました。
 

4.    日本の鳥居の上の小石


 
 それはドイツ人の教授から聞いた興味深い話です。今から丁度10年前(23年前)の西暦2000年7月に、ドイツベルリン工科大学のプレフケ教授が、日本で開かれた国際液晶学会のついでに、私の勤務先の長野県上田市にある信州大学を訪問されました。プレフケ教授には信州大学で講演をしてもらいました。講演のあと、せっかくなので、上田市と長野市を車で案内しました。長野市松代地区の武家屋敷群を案内していて、真田邸内にある小さな神社の鳥居の上に、沢山小石が載っているのをプレフケ教授は見つけて私に尋ねられました。
 
「あの小石にはどういう意味があるのですか。」
 
 鳥居の上に小石が載っている風景は、よくある風景で、珍しいことではありません。私はそれまで特別意識したこともありませんでした。確かに、私も出身地の香川県で、子供の頃友達と面白がって、小石を鳥居の上へ放り上げて載せあったのを覚えています。それでそれまで単なる子供の遊びくらいにしか思っていなかったのです。しかし、香川県から遠く離れた長野県でも鳥居の上に沢山小石が載っているのです。子供の遊びがここまで伝わりそうもなく、何か本当は、民俗学的な意味があるのだろうと思うに至りました。この時、プレフケ教授は、ヨーロッパにも同じ風習があり、日本にも同じことが行われていることに驚いたといいます。プレフケ教授によると、小石は「天国への手紙」だといいます。化学ばかりではなく歴史や文化にも造詣が深いプレフケ教授から、鳥居の上の小石は「天国への手紙」という素晴らしい説明を受けて、私は非常に納得しました。
 

5.    ユダヤ人の墓の上の小石と日本の鳥居の上の小石の関係


 
それで、ここクラクフのユダヤ人墓地の墓石の上の小石や、さっきの中央広場の慰霊碑の上の小石は、皆、生きている人々から天国にいる死者へ思いを届ける手紙なのだと考えると、このガイドさんのいう「永遠」を意味するというより納得が数倍いきます。そこで、ガイドさんに、
 
「日本にも同じ風習があります。小石は『天国への手紙』を意味しているようです。」
 
と言ったら、
 
「それは非常にインタレスティングですね。」
 
という返答でした。
 

(おわりに)


 
どなたか、本当の所、
(1)  どうしてユダヤ人はお墓の上に小石を載せるのか、
(2)  また、なぜ日本人は鳥居の上に小石を載せるのか、
(3)  両者は遠く離れているのになぜこのように類似した風習が伝わっているのか、両者に何か関係があるのか、
詳しいことを知っている人がいたら、是非教えて欲しいです。
 
 
 
平成22年(2010年)8月2-3日 随筆
令和5年(2023年)11月17日  加筆
 
 
*なお、冒頭の「小石が載ったユダヤ人墓地のお墓」の写真は、下記のURLの無料画像を引用させて頂きました。
https://pxhere.com/ja/photo/568793
 

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