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記録:東日本大震災で被災した学生への信州大学繊維学部機能高分子学科の対応

(はじめに)


 
平成23年(2011年)3月11日に起った東北大震災から、現在(令和5年(2023年))12年が経ちました。当時私は、信州大学繊維学部の 機能高分子学科長をしていました。本学科にも、岩手県大船渡出身の大学院生K野さんのご実家が甚大な被害に遭われ、K野さんのご家族がどうなったのかや、K野さん自身も今後学業を続けられるのか、多くの教職員の方々が大変心配をされ、多くの義捐金が寄せられました。あれから12年たち、私も5年前の平成30年(2018年)に定年退職し、その後教員も随分と入れ替わったので、以下のことが忘れ去られるのではないか、今後このようなことがまた起こった時に大学や学部学科としてどう対応すべきか、記録として残しておこうと思います。また、以下の記録が他大学の先生方にもご参考になればと存じます。
 

1.       被災者へ信州大学繊維学部機能高分子学科の対応


 

1-1.        東日本大震災で被災した本学大学院生K野さんへ義捐金を拠出された皆様へ


 
 3月25日の夕方、岩手県大船渡市の出身のM1(大学院修士課程1年)のK野さんに、皆様からお預かりしました義捐金を私の部屋で手渡しました。そして、当座の生活資金にしてくださいと伝えました。もしもご両親に何かあっても、本学が何とかバックアップするから心配しないようにとも伝えました。そのあと、3時間にわたり、K野さんから今度の東日本大震災に被災した詳細な実家の状況を聞きました。以下、皆様も、大変ご心配のことと思いますので、K野さんから聞きました概要を学科教職員の皆様にお伝えします。
 

1-2.        被災した大船渡のご家族の状況


 
 以下K野さんから聞きました、被災した大船渡のご家族の状況です。
 3月11日に大地震と大津波が起こった後、4日間、大船渡の実家のご両親と連絡が取れず心配で心配で毎日泣いていたそうです。実家は海のすぐそばだったそうです。4日後におじさんからようやく電話があり、K野さんのご両親と弟さんは大津波で家が流されながらも九死に一生を得て生き残り、いま避難所にいることがわかりました。そして最近、携帯電話が通じるようになると、大変悲しい知らせが入るようになりました。多くの親しい地元の友人が亡くなり、いまだに遺体が見つからない友人も多数いることもわかりました。遺体が見つかった友人は二人だけ。明日はその一人の火葬ですが、交通機関が止まっているので行こうにも行けないのですと、涙ながらに語るK野さんの話に、私も胸をえぐられる思いがして涙が流れました。その時、私は以前読んだ遠野物語に、明治三陸地震の大津波の悲しい話が載っていることを思い出して、K野さんに話しました。その話にK野さんは涙を流しました。その話を下に載せました。今も昔も、親しい人々を亡くした人の思いは悲痛です。
 

1-3.        遠野物語に記載された明治三陸地震の状況とそっくりです


 
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明治三陸地震。
 
1986年(明治29年)6月15日午後7時32分30秒に、岩手県上閉伊郡釜石町東方沖 20キロで、M8.2~8.5の地震が発生しました。その後の津波で、21,915名の死者を出しました。その時の胸を打つ悲しい話が遠野物語に伝わっています。
 
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柳田国男 (遠野物語 99話)
 
 土淵村の助役北川清と云ふ人の家は字火石にあり。代々の山臥(やまぶし)にて祖父は正福院といひ、学者にて著作多く、村のために尽くしたる人なり。 清の弟に福二といふ人は海岸の田の浜へ婿に行きたるが、先年の大海嘯(おおつなみ)に遭ひて妻と子とを失ひ、生き残りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。
 
 夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたる所にありて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布(し)きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女はまさしく亡くなりしわが妻なり。思はずその跡をつけて、はるばると船越村の方へ行く崎の洞ある所まで追ひ行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑ひたり。
 
 男はと見ればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互ひに深く心を通はせたりと聞きし男なり。今はこの人と夫婦になりてありといふに、子供は可愛くはないのかといへば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。死したる人と物言ふとは思はれずして、悲しく情なくなりたれば足元を見てありし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。
 
 追ひかけて見たりしがふと死したる者なりしと心付き、夜明まで道中に立ちて考へ、朝になりて帰りたり。その後久しく煩ひたりといへり。
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このように、今も昔も、親しい人々を亡くした人の思いは悲痛です。
 
なお、後日、今回の義捐金に対し、K野さんの御父上から、ご丁寧なお礼のお手紙を頂きましたので、皆様にも回覧いたします。
 

2.       K野さんのこと


 

2-1. 入試の時の面接で


 
 私は、K野さんのことは、入学試験の面接の時から覚えています。なぜなら、面接試験のときの答えが余りにも、3人の面接官の心を打ったからです。K野さんは信州大学繊維学部の当学科、機能高分子学科[1]を目指していましたが、現役の時は果たせず、他大学のY大学へ不本意入学しました。そこで、お父さんが、「お前、それで、本当にいいのか?!」と何度も心配して聞かれ、本学科を再受験することにしたとのことです。そして面接が進み、面接官の一人が、「あなたの座右の銘は何ですか?」とさらに質問をしたところ、K野さんさんはきっぱりと「初志貫徹です!」と答えられました。この答えに面接官3人とも、大いに、心を打たれました。
 

2-2. チューター


 
 そして、K野さんははれて当学科に入学されました。当学科では、1年生の時から、教員1人に3人ほどの学生を割り当て、学部や大学院を卒業するまで、その学生の生活や学業の相談に乗る、チューター制度というものを作って、学生への個別対応を行っています。私は、なんとあのK野さんのチューターに割り当てられました。K野さんは、学部4年を終えられて、さらに、当学科の大学院修士課程に進学されたので、私は計6年間彼女のチューターでした。
 私が、学科長の時に、東北大震災が起こりました。そして、上述のように、被災者のK野さんが学業を続けられるように、学科として対応しました。
 

2-3.  就職の時の面接で


 
 1年後、彼女は大阪に本社のある企業に就職しました。
そしてその2年後私が本学科の就職委員をしているとき、その大阪の企業の方が就職委員の私のところへ募集にやってこられたので、
「御社にはK野さんを以前採用して頂いており、大変感謝して居ります。今、K野さんは元気でやっておりますか?」
とお聞きしたところ、その方は大変驚き、次のようなお話をされました。
「就職の面接のとき私がK野さんの面接を行いました。大船渡のご出身と伺い、『東北大震災の時は大変でしたか?』と質問をしたところ、急にはらはらと涙を流されたので、私は悪いことを聞いてしまったと、後悔しました。」
というような話から始まり、そのあと、
「現在、K野さんは、弊社で活躍しています!」
ということをお聞きしました。
この方も私と同じくK野さんの面接を担当されていたのかと大変印象深かったのと、彼女が元気で活躍していると聞いて、私も安心しました。
 

(おわりに)


 
以上の記録が、今後また同じような大災害が起こった時に、信州大学繊維学部の先生方や他大学の先生方のご参考になれば幸いです。
 
 
 
ご参考
[1] 現在は、機能高分子学科は信州大学繊維学部化学・材料学科機能高分子学コースと改組されています。
 
*なお、冒頭の「巨大地震」のイラストは、下記のフリーイラストの中のものを使用させて頂きました。
https://www.google.com/search?sca_esv=584099460&rlz=1C1EJFA_jaJP1032JP1032&sxsrf=AM9HkKnXuFT_XgNBTqys5B2wQL6OzaQEoQ:1700521748477&q=%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%88&tbm=isch&chips=q:%E5%9C%B0%E9%9C%87+%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%88,g_1:%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC:dKSBQdV5uK0%3D&usg=AI4_-kSeZ89U2Oun3Hb-mmUiMivzpsqFvQ&sa=X&ved=2ahUKEwiTw4CW2dOCAxXE8jgGHQU8BNsQgIoDKAR6BAgLEBA&biw=1280&bih=875&dpr=1#imgrc=Wswy_Gf198z5CM
 
 
平成23年(2011年)5月11日 機能高分子学科長 の私からの御知らせ
令和5年(2023年)11月22日 加筆

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