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迷うこと

論語で「不惑」という言葉があってこれはかぞえで40歳のこと。とっくに40を過ぎている私は不惑が全く当てはまらない。

「迷う」とはデジタル大辞泉では

1 まぎれて、進むべき道や方向がわからなくなる。
2 どうしたらよいか決断がつかない。
3 心が乱れてよくない方向へ行く。欲望・誘惑に負ける。
4 死者の霊が成仏できないでいる。
5 区別がつかなくなる。まぎれる。
6 秩序なくあちこちへ行ったり来たりする。
7 布の織糸が弱り、糸が乱れかたよる。

どれも芳しくない、そりゃそうか。わからなくなるとか、決断がつかないとかそれらが「迷う」ことだ。

日々生きていればルーティーン以外のことも多々発生し、程度の差こそあれ判断・決断を迫られている。これかごくごく短い時間でも発生していて自動販売機でどんなドリンクを飲もうか、なんて悠長な選択だけではなく「次に何をやる(やりたい)」ということはほぼ断続的かつ無意識のうちに我々は判断・決断を行っている。これはシーナ・アイエンガー氏の『選択の科学』を読むとなかなか興味深い。

判断・決断をするときには既に持っている知識(ここには経験も含まれる)を活用することだろう。「前回は~だったから」とか「いつもは~してる」のような判断をする人がほぼ大半だと思う。大半はこれで事足りるし、だからこそ経験は価値があって重宝される。私のようなポンコツシニアでも会社で重宝される原因でもあろう。

ただし。これだと「ぶっ飛んだ」イノベーションはまず発生しない。予定調和の、日本人が大好きな前へならえ方式では当然だろう。だから意図的に、恣意的に「迷う」必要はあるように思う。

だが日本の教育を受けて枠からはみ出さないように飼い慣らされている我々には難しい。そこであえて「ぶっ飛んだ」人物に声を掛けるということは重要で、そういう人材と巡り合う必要性は高い。

ちょっと注意したいのは真に「ぶっ飛んだ」人物というのはあまり多くないということだ。結構目にするのは自称「ぶっ飛んだ」人物だ。「小さいころから周りには『変わってる』と言われててぇ~」という輩はだいたい普通、もしくは普通以下だ。歪んだ自己顕示欲がそうさせているのだろう。

「ぶっ飛んだ」人物に突拍子もないアイデアを提示されると我々凡人は狼狽する。が、狼狽したままではダメだ。ここで「迷わず」そのアイデアを実行しなくてはならない。何度も言うが失敗を恐れずに実行するのみだ。

多分失敗するでしょう(笑)でもその失敗の経験が尊い経験で、経験しようと思ってもなかなかできないことだ。だから重要なのは「ぶっ飛んだ」人物のアイデアを聞く耳と、それをすぐ実行に移す実行力、フットワークの軽さだ。

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