目覚まし時計

子供の頃の私は午前3時に起きるため目覚まし時計を意味もなくセットしていた。起きても、すぐに止める。アラームを1回止めただけでは鳴り止まない。数十分後またアラームが鳴り響きまた止める。鳴る。止める。鳴る。

二度寝をわざとする為に起きる時間よりも早く起きて寝る事を楽しんでいた。それに飽きると、今度は、時計の長針を20分程いじった。

起きた時、「この時計は、20分早いから後20分は眠れる、やった、おやすみ」

最初の頃は、特別感に浸るために楽しんでいた遊びもいまは暇つぶしにしかならなくなった。そして何処かのタイミングで本来の使い方に戻っていた。

特別を生み出してきた純粋な自分はまだいるのか

体質的に目覚まし時計がセットした時刻よりも早く起きる。起きた瞬間まだ目覚まし時計が鳴っていないから、 午前6時前か…と考えまた寝る。身体が二度寝出来るようなってしまた。
だから私に目覚まし時計は必要ない。でも保険をかけてセットする。未だその保険が機能した事は一度もない。布団の中で目覚まし時計が鳴るのを観察していた。

特別じゃなくなった時、それは思い出になった時だ。人は、苦悩を思い出にするために向き合い続ける。幸せな時、永遠が続いて欲しいと切に願う。アンビバレントな感情も考慮なんてされるわけもなく時間は過ぎる。

幸せな時を常に思い出すわけがない。ただ辛かった日々は、真夜中に再発し自分を苦しめる。人から言われた嬉しい言葉、大切な人から言われた言葉よりもどうでもいい人から言われた傷つく言葉は常に心の片隅に残っている。眠っていた感情を思い出すのは優しさではなく、刺激だ。

あーずっと眠っていたいな。最近の楽しみは睡眠である。疲れもなくなるし、ちょっといい感じの夢を見ると布団のなかでテンションが上がる。目覚ましい時計は、現実に呼び起こす道具だ。これは許せない。だが必要な道具だ。

自衛隊の訓練の動画を見たときの起床ラッパを思い出す。あれと似ているな、夏休みの時に行われたラジオ体操だ。あれ、出たら図書券500円分貰えるから頑張った。ただ貰った瞬間行かなくなった。

社会を支配している先兵は、目覚まし時計だ。ディストピアの条件である、規律としての形の象徴。

目覚まし時計のことを考えると愛おしくなる。社会を支配する象徴。最も忌むべき機械。だがそれがいい。

心の中にある目覚まし時計。悪夢を放して現実に向かおう。りんりんりん。

幸せは夢の中にはない。


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