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#3 車の運転を学びに来たのに

手続きはさくさく進んだ。

事前に電話をかけて必要なものを揃えて向かう。
住民票、マイナンバーカード、そして、現金。

 おおよそ三十万円。コンビニで引き出して、封筒に入れて急いでカバンに仕舞う。一気に落ち込む貯金残高を見て「もう引き返せない」と追い詰められたような気持ちになった。不労所得はないので働かないと生きていけない私にとって、お金は大切なものだ。しかし、今まで一度もお金持ちになるために働いたことがないように思う。仕事は自分の時間を費やす楽しいものとして、社会と繋がるための活動としての役割を大切にするあまり収入を上げることに重きを置いて仕事を選んだことがなかった。それはいざとなったら泣きつける実家があると思い込んでるせいなのか、単に楽観的な性格だからなのか分からない。性格的に興味のないことは続かないという確信はある。そんなこんなでお金を後回しにして生きてきた私にとって三十万円は大金だ。自分で稼ぎ、自分で考えて、自分に金を使う。日々やっているはずのことなのに、大金が動くと身に染みる。封筒越しの厚みを感じながら軽く痺れを覚えた。

 入校手続きはまるで携帯電話の契約のように機械的にわかりやすくテキパキと進められた。身体が動くかどうかの検査として腕を動かしたり、屈伸をしたりする。写真は意外と有無を言わせず撮られる。まるでアメリカのドラマで逮捕された時に取られる写真のようだった。終始明るかった受付と対照的だったのが、教室で入校説明だ。教習の進み具合を記入する『教習原簿』を席を巡回してくる教官に手渡すようにアナウンスがあった。角に座っていた私のところに教官が一番最初にやってきたので渡そうとしたところ「両手で、名前の面がこちらに向くように渡さないと受け取りません」と男性教官にいきなり言い渡されて面食らう。はっきりとした男性教官の声を聞いた多くの人たちの視線が私に注がれる。私は書類を投げつけた訳ではない。雑な所作でもないと思う。受け取りやすいように書類を持ち上げ差し出したのだが、教官は私の仕草に「不敬」を感じたようだった。おお、ここは敬意を強要されるタイプの場なのか。もちろん人として、見やすいように書類を渡すのは社会人としてできたら素敵なことだと思う。しかしながら、その態度を半ば恫喝にも近い形で金を払ってまでしないと普通免許は手に入れられないのだろうか。そんな思いは私が不遜だからなのか。へりくだった態度で接することはこのような状況で当たり前なのだろうか。少なくとも敬意を強要してくるタイプの人に差し出せる敬意は耳かきひと匙分も持ち合わせていないのだが、この先どうしたものだろうか。私が逡巡しながら、反射的に教官を睨みつけてファイルの向きを変えている間に教室の空気は一気にひりつき、恐怖感や居心地の悪さが一気に共有された。

 私の次に続く人は恭しくその男性教官に自分の名前が明記された面を両手で手渡していく。嫌な気分になった。大人になって、誰かに高圧的に接されることはあまりなくなっていたのかもしれない。「できるだけ丁寧な教習を心がけます。しかし、運転するということは人の命を奪うかもれしないことです。なので時には短く『危ない!』ということもあるかもしれません。今の若い人たちは学校でも優しくされているから厳しく感じるかもしれませんが、人命に関わることを学ぶ場としてどうかご容赦ください」と別の教官が壇上で説明を続けている。もっともな話だと思った。もちろん、ジムや習い事のような趣味のための場所とは一線を画した場所だ。それは理解しているが、先ほどの教官の振る舞いと人命を守るためにある種の厳しさを持つということは違うように思う。明らかに権力勾配を利用していた。書類の出し方と人命に関わる安全な運転はどうも遠いことの様に思う。私は車の運転を学びに来たはずなのに、書類の渡し方まで指導されるとは…先が思いやられた。


 後から人が入ってきた。どうやら教習期限が切れて、改めて入校する人のようだ。先ほどの高圧的な教官が彼らに一言ずつ声をかけていく「今度はきちんと通って期限を守るように」字面にするとなんだかマイルドだが、明らかに嫌味な含みを持った響きが教室中に響いていた。わざわざ他の人のいる前で吊し上げるようにアナウンスするようにいう必要があるのだろうか。

疑念が重なる状態で教習所生活をスタートした。

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