中島敦の『山月記』をどう読むか② 山月記は1000人に1人しか必要ない?
少し前にこんな議論があった。可笑しいのは11万人くらいの人たちが閲覧していて、殆どの人が「自分は『山月記』を読んだ」というていで意見を述べているのに対して、議論のきっかけは『山月記』は1000人中、999人が読めないというツィートだったこと。
つまり0.1パーセントの国語エリートがtoggeterで発言していた計算になる。
実際にはまあそんな極端な話ではなくて、例えば「山月記」ってなんか格好のいいタイトルだなとか、「隴西」って中国のどこかだよねとか、「天寶」って昔の年号だよねとか、「虎榜に連ね」って科挙試験に合格したってウイキにあるし……という程度に読んでいる、という人が殆どなのだろう。
一方教科書に採用されたことによりあんちょこリストは充実していて、タイトルの由来や「隴西」の場所、「天寶の末年」が何年なのか(755年)、「虎榜に連ね」とは進士の試験に合格したことだという説明まで書いてあるものがあるようだ。だから解る、読めると思いこんでいる人が多いのかもしれない。
しかしそんなあんちょこリストに頼って読んで面白かったと思いこんでいる人に質問。
なんで『山月記』なの?
つまり、なんで『残月記』でも『明月記』でもなく「溪山」の「溪」ではなく「山」を採るの?
それにしても「人々は最早、事の奇異を忘れ、肅然として、この詩人の薄倖を嘆じた」ってまさに「0.1パーセントの国語エリートがtoggeterで発言していた」みたいな話になっていておかしい。そんなに詩の才能に溢れた人たちばかりがたまたま集まるものなのかね。
大体いい詩の良さが万人にすぐわかり、受け入れられるものなら、そもそも李徴は虎にならなくても済んだはずだ。
つまり『山月記』そのものが本来は「文名は容易に揚らず、生活は日を逐うて苦しくなる」という話なのに、いざ教科書に載ると「凄い凄い」「よく分かるよ」「傑作だ」ともてはやす、そのミーハーないい加減さがどうにも捻じれてはいまいか。
さて、「此夕溪山對明月」は名詩と云えるだろうか?
少なくとも李徴は、いや、中島敦はここで小細工をしている。そしてここがタイトルに採られている所なので、この小細工は「どうでもいいこと」ではあり得ない。
人間が虎になるなら虎が人間になってもいい筈だ。
しかし「此夕溪山對明月」ではあまりにも後ろ向きじゃないかな。
「山月記は1000人に1人しか必要ない?」問題で、『山月記』は傑作だ、よく分かる、と発言していた人たちはこの小細工の意味が説明できるのだろうか。少なくとも何人かは国語教師らしき人たちが発言しているようだが、果たしてどうなのだろうか?
あるいは「虎榜」が「龍虎榜」でない意味を?
それをみんなで考えてみましょうでは答えにはならない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?