小林十之助

近代文学2.0をやっています。近代文学1.0は終焉したそうですから仕方ありません。トン…

小林十之助

近代文学2.0をやっています。近代文学1.0は終焉したそうですから仕方ありません。トンデモ説ではない漱石論を書いています。近著『あなたの漱石読解間違っていますよ』『人類史上初夏目漱石の『こころ』を正しく読む』『夏目漱石は何故死んだのか』アマゾンで探してください。

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やはり戦前から読まないと 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む31

 新潮社の『決定版 三島由紀夫全集』を見ても『春の雪』に現れる明治三十七年六月二十六日の「得利寺附近の戦死者の弔祭」にはルビも降られていなければ、註解もない。  お陰で日露戦役を知らない多くの人は「得利寺」を「とくりでら」と読み、日本のどこかの寺の名前と思い込んでいることだろうが、これはこんな場所である。  金州からは北へ三十里ばかり、普蘭店からは同じく二十里足らずの所にある清国(現在の中国遼寧省)の地である。  従って「テーリースー」と中国語読みされている場合もある。

    • そういや俺もそうか 牧野信一の『闘戦勝仏』をどう読むか⑨

       それでも誰か一人、一番好きな作家を一人だけ挙げろと言われればそれはフランツ・カフカということになるのだろう。しかしそんなことを書いてしまうと「あいつは変わったものが好きな変な奴だ」と言われるのが嫌で、なかなかそうとは言えない。実際フランツ・カフカの作品はどれも奇妙で、登場人物の多くは信用できない。しかしフランツ・カフカの伝記などによれば彼は実生活は真面目で誰に対してもきちんと対応している。そのカフカ作品の登場人物の信用ならなさと、牧野信一の『闘戦勝仏』のの登場人物の信用なら

      • 金持ちの気まぐれではできないこと 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む30

         平野啓一郎は「53 透の「真贋」」においてこう述べる。  さすがである。  この一言でこの本を買う価値があると言ってよい。これはなかなか気がつかないポイントだ。平野はこれが亡妻の梨枝から提示されていたことでありながら、動機の具体的な描写がないと指摘する。  この「誤解」そのものは大した問題ではない。物語は本多がただ透を観察することに留まらなかったことで悲劇的に展開してくことになるからだ。さらに平野はこうも指摘してみる。  あれだけ『金閣寺』において無意味に天皇に固

        • 何も書かれていない 牧野信一の『闘戦勝仏』をどう読むか⑧

           遥かな昔、大学の一般教養の「心理学」の大教室での講義の際に、どういう経過は忘れたが私は「そもそも人格なんてものはあるんですかね?」とド直球の質問をしたことがある。  心理学の教授は何を警戒してか、恐る恐るこう答えた。「心理学においては人格、パーソナリティというものが一応あるとされています」  そこからの話は覚えていない。しかし「一応」という言葉が挟まれたのは間違いない。  それから長い時間が流れて様々な考え方にも触れてきたが、この問題にはまだ何か奥歯にものが挟まったような、

        やはり戦前から読まないと 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む31

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          何処まで知っていたのか? 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む29

           平野啓一郎は「52  三島と「悪」」に於いて、本多の悪の意識を論ってみる。  こう摘まんで置いて平野は不思議がる。  作品中にこのような場面はどこにも見られないととぼけて見せる。「決して愛することを知らず」「他人の死を楽しみ」はいざ知らず、「自ら手を下さずに大ぜいの人を殺し」「世界を滅亡へみちびきながら、自分だけは生き延びようとしてきた」人物と言えば、統帥権を持つ天皇、その人以外にはあり得ないのではないか。  無論そういう見立てが『はだしのゲン』的にヒステリックなもの

          何処まで知っていたのか? 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む29

          凄いとしか言いようがない 牧野信一の『闘戦勝仏』をどう読むか⑦

           平野啓一郎の「三島由紀夫論」の方を急いだので二日空いてしまった。牧野信一について書いたのはもう遠い昔のことのようで何を書いたのかすっかり忘れてしまった。  思い出した。悟空が王様のおかまを掘るんじゃないかという話だった。記録というのは便利なものだ。  いやこれではおかまを掘るどころではないな。それにしてもなんという造形、なんという捉え難さだ。比べてみると田中英光が阿呆みたいだ。  夢でジン・ジャンの小水を浴びて幸福になる本多も凄いが、そのひねり出した感がない分「魚のや

          凄いとしか言いようがない 牧野信一の『闘戦勝仏』をどう読むか⑦

          冬木立果敢なき葛の寒さかな 夏目漱石の俳句をどう読むか92

          冬木立寺に蛇骨を伝へけり  これは実際に言い伝えにちなんで蛇の骨を保存していた寺のことを詠んだ句のようだ。  高浜虚子の『伊予の湯』にもこの寺のことが出てくる。ただし蛇の骨のことは書かれていない。  子規の評点は「◎」である。しかし他県の人には解らない句ではないか。  解説も石手寺のことには一切触れていない。これでは何のことかわからないだろう。私も最初是は漱石がどこかから蛇の骨を拾ってきて寺持って行ったのかと勘違いした。  漱石はあと百年は残る。  岩波書店さん、

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          贋物の証拠は? 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む28

          平野啓一郎は「49 『天人五衰』の「創作ノート」」において、  この括弧の中に示された平野啓一郎の解釈は、既に商業出版されている『豊饒の海』幻の五部作について語る井上隆史の『三島由紀夫 幻の遺作を読む――もう一つの『豊饒の海』』と異なる解釈であることから比較検証が必要である。  井上の指摘は「完成作とは大きく異なる内容の最終巻、つまり五巻目のプランが検討されていた」というだけに留まらず、三島由紀夫の死が行動のために早められ、文学が譲らねばならなかったというところまでを論じ

          贋物の証拠は? 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む28

          死んだのは誰? 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む27

           平野啓一郎は、と、この名を書いた回数ではこの一週間ほどの間で私より多い人間はいまい。そしてここにはまるで悪意がなく、むしろ善意しかないことは驚くべきことではなかろうか。  私は平野啓一郎に『三島由紀夫論』を正しく書き直してほしいという建前で、勿論三島作品を頓珍漢に誤解させられないという本音も含めて、今限りなく正直に平野啓一郎の『三島由紀夫論』と向き合っている。  これが冗談でないことは日付だけ確認して貰えば解ることだ。  さて平野啓一郎は『三島由紀夫論』の「Ⅳ『豊饒

          死んだのは誰? 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む27

          見えていない観察者 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む26

           認識者たりつづけようとする平野啓一郎は「47 本多の「認識論」の逡巡」において、次のように述べている。こう書いてから五分ほど、私は何處を引用したらいいか迷っている。  本多は「外面の官能的な魅力」と余計な、ルッキズム的な言説を混ぜてしまう。しかし「自らの生への「参与の不可能」の故に、恋は不可能である」とロジックがねじれる。「外面の官能的な魅力」はなくとも恋は可能だ。  悟空でも恋はできる。  この悟空の美しい王に対する感情は恋と呼んで差し支えないものであろう。悟空の

          見えていない観察者 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む26

          そっちの対は見えるのに 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む25

          平野啓一郎は「46 月光姫(ジン・ジャン)」においてようやく、  こんなことを書いてみる。  しかし天皇とタイの王様を比較することは絶対に避けている。  先に書いたようにシャムの王子が日本では普通に扱われるのだから、イギリスでも皇太子は同じように扱われただろうという自然な連想には進まない。どうやら最後まで踏ん張るつもりらしい。  解るよ。  三島由紀夫は〈天皇〉を絶対者とみていたから、だよね。  しかしそれは本当なのかね。  そもそも絶対者がいないから創り出そ

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          そう大きくはない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む24

           三島由紀夫はそう大きくはない。むしろ小さい。三島由紀夫の身長は昭和天皇と同じ163センチで、当時としても小柄である。大柄の石原慎太郎と並ぶと、やはり寸法通り小さく見える。  澁澤龍彦も160センチないくらいで細身の上に小柄である。しかし今西は「長身」と書かれ、平野は、  こう書いてしまう。参考文献のどこにも三島由紀夫の身長のことなど書いていなかったとして、石原慎太郎と並んだ写真を一枚も見ていないわけもなかろうに、何故か三島由紀夫を「長身」にしてしまった。もしも三島由紀

          そう大きくはない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む24

          妥当だろうか 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む23

           平野啓一郎は「44 『柘榴の国』」において不意に『家畜人ヤプー』を読んていることを仄めかす。それはそうだろうという話ながら、よくここまで黙っていたものだと感心する。その上平野は『家畜人ヤプー』を掘らない。  この「44 『柘榴の国』」では『家畜人ヤプー』そのものの内容には触れられない。それが日本民族そのものを本質的な家畜とみなす究極のマゾヒスト・ユートピア小説であり、三島の檄の真逆の世界の話だというのに、その思想性を摘ままない。なんならそれが三島由紀夫のお気に入り作品で

          妥当だろうか 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む23

          富士山は天皇か 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む22

           平野は躊躇なくこの自覚を三島由紀夫と重ね合わせて見せる。しかし三島の不安に自分を重ねることは敢えてしない。茶髪にピアスの京大生も年齢的にはこの時点に差し掛かり、だからこそこの『三島由紀夫論』を書き上げたのではないかと買いかぶっていた私はいささか虚を突かれる。  図書館の数だけこの本は売れるが、その努力に見合う見返りでは無かろう。平野啓一郎自身は今どう思っているのか。そこが見えないと本当の三島由紀夫論にはならないのではないか。  三島由紀夫は『林房雄論』を書いてさえ「三島由

          富士山は天皇か 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む22

          松枝の記憶はないんだ 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む21

           昨日は『奔馬』の結びについて書かれていない静かな失血死というものがあることを書いた。それはまさに書かれていないことながら、ロジックとして浮かび上がるもので、切腹の作法についてきちんと調べていた三島由紀夫が、意識して書かなかったことだ。その静かな死が意識されてこそ三島由紀夫の騒がしい死とのシンメトリーが見えてくる。  シンメトリーとは究極的には書かれていることで書かれていないものを浮かび上がらせるレトリックでもある。  珍しく『暁の寺』の本筋がなぞられている「41 勲の転

          松枝の記憶はないんだ 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む21

          聖なる政治的精神では通用しない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む⑳

           話は「39 「武士道精神」と国防」で『暁の寺』に進む。悪い予感しかしない。『暁の寺』は「武士道精神」と国防の話ではないからだ。また前置きがたくさん積み上げられる気がしてならない。  三島は……いや、平野は前置きとして執筆時期に触れ、急がねばならなかったという。そして『暁の寺』脱稿時は不快だったという。その説明を平野よりもう少し長めに引用しよう。  このくだりは『暁の寺』を論じようとしたとき、誰もが繰り返し読みなおしさせられるところである。  いや間違えた。平野が引用した

          聖なる政治的精神では通用しない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む⑳