眼ざしの頭もいらない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む46
見出し画像は大阪毎日新聞社 編大阪毎日新聞社 1921年刊行の「皇太子殿下御渡欧記念写真帖 第4巻」の中にある東宮殿下(後の昭和天皇)の写真である。国立国会図書館デジタルライブラリーで確認できる。
すでにいくつか並べてみた通り、皇太子時代の裕仁殿下の顔には何種類かのパターンが見られる。
気になるのは写真帳に後ろ向きや斜め後ろから撮影されたものが多く、顔が一切わからないものが少なくないということだ。少なくないというか寧ろ多い。生涯でわずか四枚の写真しか残さなかった明治天皇と比べれば露出は多い。ところでこれがプリンスに対する態度かね? その手は何?
わざわざ真後ろから撮る?
この二枚の写真は大英博物館見学時のほぼ連続した写真であるが、
こちらはポマードで撫でつけられたような髪型に見え、耳の形が異なる。
こちらはくせ毛のツーブロックに見える。なぜこのような中途半端な修正をしているのかはよくわからない。
こちらもかなりのくせ毛である。
また時折上唇が薄い人物が撮影されていて、
耳と鼻の形が異なる。
上唇が薄く、耳の形も違う。
どこか似てゐなくもないが、
やはり別人に見える。耳が違う。鼻も違う。
わざと顔が解らないように映している写真が多いのは、やはり影武者がいた証拠なのではなかろうか。
結論から言えば『春の雪』の皇太子殿下の顔はこの系統。上唇は厚くない。おそらく三島由紀夫は皇太子殿下の顔を知っていた。三島は大正天皇の顔には言及するが皇太子の顔には言及しない。まさか父親に似ず凛々しいとも書けないわけではあるが、実際いかがか。
大正天皇の顔は先帝と比べられてディスられている。当然その場にいる皇太子殿下の顔とも比較してのことなのだ。だから三島由紀夫は皇太子殿下の顔を知っていたと考えられる。
これはどう見ても完全な別人。敢えて言えば影武者ということになろう。
これは修正による美化。
これは縦に引き伸ばされたもの。
これは影武者。
これが本物の系譜。
これは謎の人。
これが本物の系譜。
ただし『春の雪』に現れた皇太子とは別人であろう。東宮殿下は大正三年まではこんな顔だった。
この皇太子殿下は大正三年四月に東宮御学問所に進み帝王学を学ぶことになる。そしていつのまにか顔がこちら向きに変わる。
昭和七年『奔馬』の空間における天皇はこんな顔だったのだろう。
ところで平野啓一郎は、『奔馬』における天皇の不在を指摘しない。「27 「ニヒリズム」と「ミスティシズム」」においては、
と鋭い指摘をしてみるが、飯沼勲が天皇に向かってではなく太陽を仰ぎ見て腹を切る意味に辿り着いていない。三島が書いているのだからそれは明らかにあえてされていることなのである。
太陽は本来あるべき天皇の代役なのであろう。昭和三年十一月十四日から十五日にかけて裕仁天皇は大嘗会の儀式を執り行っている。従ってその裕仁天皇が、昭和七年の時点でまだ同じ裕仁天皇であれば、天皇は不在である筈がないのである。
しかし『奔馬』には天皇は現れない。これは一体どういうことであろうか。何故三島由紀夫は天皇を無視するのか。『奔馬』第八章で本多はやや強引に押し付けられる形で飯沼勲から『神風連史話』を借り受ける。そしてなんと第九章はそのまま『神風連史話』が提示される。ふかえりの『空気さなぎ』のような形式だ。
まずは「宇気比」の話になる。散々勉強した後、現地取材して集めた情報がギュッと詰め込まれていて、いかにも三島らしいくだりだ。そこにこんな理屈が出てくる。
政党政治も議会制民主主義も完全否定である。そしてよくよく注意してみると「別に今上天皇に従わなくとも宇気比の神に従えば問題ない」というロジックが出てきている。これは実に面白い理屈である。
なんなら『神風連史話』の中では「宇気比」の始まりを、天照大御神と須佐之男命が高天原で行ったものとしているので、「宇気比」における神とは理屈の上では天照大御神以上の神でなくてはならないことになる。そういうものがが存在していることになる。ここは私の読み違えで、須佐之男命が天照大御神に対して「宇気比」を行ったのではないかと何度も読み直したが、どうもそういうことではなさそうだ。
ものすごくかみ砕いていってしまえば「宇気比」とは占いのようなものである。寺にあるおみくじをみんなお釈迦様が書いている訳もないし、お釈迦様がそのくじを引かせているわけでも無かろう。これは神社のおみくじでも同じである。しかしその「宇気比」の神事を始める前に実に物々しい前置きがあるのだ。
開国、新政府、明治天皇の全否定である。ここから「死諫を当路に納れ、秕政を釐革せしむ事」「闇中に劔を揮い、当路の姦臣を仆す事」という二つ「ねがいごとのようなもの」がイエス・ノーの占いにかけられることになる。この「ねがいごとのようなもの」がすなわち「宇気比」とされていて、イエス・ノーのジャッジをする御神体のようなものは特に限定されていない。
御神示と言いながら、天照大御神が神託をおろすとは書かれていないのだ。それなのに「幽(かく)り世の遠御神(とほつかみ)に事(つか)へまつるのは同じことであり」とは屁理屈も屁理屈、大屁理屈であることは確かだ。
この後の「死諫を当路に納れ、秕政を釐革せしむ事」「闇中に劔を揮い、当路の姦臣を仆す事」の「宇気比」が神慮にかなわずずれも不可となった後の、神風連のやり口が凄い。
このやり口においてはそもそも「宇気比」というものは方便でしかなく、彼ら神風連において神は、自分たちの行動を認めざるを得ないものでしかない。神風連の目的は皇道の復活、夷狄の掃攘である。結局彼らは三度目の「宇気比」で神明の許しを得て「神軍」となる。ここでは実在しない神が担がれたことになる。
しかし神風連に神風は吹かなかった。
神風連にとって現(うつ)し世の顕御神(あきつみかみ)である天皇の存在や意思というものは「宇気比」によって無視できるものになっており、その思想とも呼びえない行動原理にしたがえば、もはや飯沼勲にとっても天皇やめざしの頭は必要ないことになるのである。
この神風連に目を付けた三島由紀夫は春日宮天皇に目を付けた三島由紀夫くらい凄いが、何と二人は同一人物である。無理矢理創り上げた天皇と、今上天皇の意向を無視して「宇気比」に頼ろうとする純粋な皇道派を見つけるとは、三島由紀夫という男はなんと天皇の無意味化に熱心な男なのであろうか。
しかも三島由紀夫は小手先のいたずらで天皇を回避しているのではない。神風連も大真面目、飯沼勲も、そして『神風連史話』を読んだ本多も大真面目で純粋さということについて考える。本多は勲に、『日本をキリスト教化し、この教へによる新日本を建設しよう』という神風連とは正反対の思想を掲げる熊本バンドの純粋さというものがあったという話を飯沼勲に手紙で教える。
熊本バンドの純粋さからも天皇は排除されている。
飯沼勲は神風連に心酔している。堀中尉に理想を聴かれた勲はすかさず、
こう答えている。彼もまた「現(うつ)し世の顕御神(あきつみかみ)である天皇の存在や意思というもの」は無視する気満々である。従って『奔馬』においても天皇は不在なのである。不在なのでその顔はどれなのか分からない。分からなくても仕方ない。隣国の偉い人の顔も良く変わる。だから太陽でも拝むしかないのだ。
見たやつおるんか?
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