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川上未映子の『すべて真夜中の恋人たち』をどう読むか⑪ その人は死んでさえいない

 冬子は三束から貰ったショパンの子守唄をほとんど一日中聴くようになる。いわゆる男の趣味に染まるというわけではないようだ。アルバムにはショパン以外のピアノ曲も入っていたが冬子はショパンの子守唄だけをリピートする。

 三束さんが言ったように、そのメロディにはほんとうに光の感触がみちていて、何かをやさしく指さすように、何かをそっと導くように、ひとつひとつの音が目を閉じればやってくる淡い闇のなかを瞬くのが見えるようだった。

(川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』講談社、2011年)

 まあ、そう感じたのならそうなんだろう。しかしこれではまるで冬子自身が導かれているようだ。

 わたしは目を閉じて手をのばして思うままに体をゆらし、頭をゆらし、光をかきまぜるように踊りながら、そんなふうにいつまでも部屋の中を歩きまわるのだった。

(川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』講談社、2011年)

 もしも村上春樹が書いたならここは「体をゆらせ、頭をゆらせ、」となるところだ。

 村上春樹は『騎士団長殺し』では「石をどかせ」を命令形でなく用いる。それでよく調べてみたら「どかす」だけではなく「ゆらす」でも活用変化が変だった。

 まあそれはそれとして冬子、あんた真面やないで。

あのときの至福と心の高鳴りは、一体何に譬へたらよからう! 暁子の心は円盤の軌跡を追ひ、北国の低くわだかまる雲を貫ぬいて、巻雲の逆巻くところ、真珠母雲のきらめくところ、夜光雲の漂ふ高層のさらに上、おそらく紅ゐにかがやく極光のはためきに包まれるあたりまで天翔つてゐた。彼女の肉体は地上に残された。それもかなり永ひあひだ。……その間地上の肉体に何が起こつたか、どうして暁子が知ることができよう。

(『美しい星』『決定版三島由紀夫全集第十巻』新潮社2004年)

 要するにそれは舞い上がっているゆうことや。隙だらけや。

 冬子は毎週木曜日の夕方、三束のいる喫茶店に行くようになる。毎週三時間、三束はよく物理の話をした。

 いつか三束の学校では教師と生徒が二人きりになることも、下の名前で呼ぶことも禁止されているという話になる。二人は三束の提案で二人の関係を生徒と教師の関係から差別化するために、三束は冬子を「冬子さん」と読んではどうかと提案する。

「……はい」わたしはまた三束さんの顔をみることができなくなり、うつむいたまま小さな声でもう一度、はい、と返事をして、それから何度も肯いた。

(川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』講談社、2011年)

 下の名前で呼ばれることに照れて嬉しがるって、冬子、それがあかんいうとんねん。尻尾ふり過ぎや。それからなんやて、日曜日の夕方も会うようになった……なら「サザエさん」は見いへんのかい。

 三束は五十八のおぢいちゃんやった。十二月十日生まれ。東京生まれで身長は173センチ。血液型はA型。三束にも冬子の出身県と誕生日、パーマも海外旅行も未経験であることが伝わる。

 けれど、わたしが知りたいと思いはじめている三束さんについては、何もわからないままだった。言葉はいつも、とどまった。三束さんが質問させないわけでも、そんな雰囲気をつくっているわけでもなんでもなかったけれど、ただ言葉がでてこなかった。

(川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』講談社、2011年)

 そやな、なかなかストレートには質問でけへんわな。「童貞ですか?」とは。いやいや、そこではないか。「まだ朝はお元気ですか?」か。え、それとも違う? ならあれか、「小さい女の子が好きだったりしますか?」か。いやまあ仮にやで、五十八歳で教師で独りもんやったら、そらなんかあるで。中学の時に化学の先生が言うとったわ。「教師はモテる」って。三束さんはあれちゃうか、例のあれ。

 十月になって聖から電話が来て、聖の服を色々まとめて送ってもらうことになる。こりゃありがたい。

 そして早川典子が210-148だから、72ページぶりに登場する。十五年ぶりの再会だ。これはつまりもう一度水野も現れて、何かこじれるのではないかという予感のする前振りにもなっていて、長野県というのが何か意味を持って來るぞという前振りにもなっている。

 これだけの間隔を開けて早川典子が再登場したからには、そういうふりになる。しかし川上未映子は賺してくる。

 早川典子には二人の子供が出来ていた。夫とはセックスレス。ただし二人とも浮気をしている。夫とは子供とお互いの実家のことしか話題がない。そんな話は誰にも言っていないと早川典子は言う。

「なんで入江くんにこんな話ができたのかっていうとね」と典子は言った。「それは、入江くんがもうわたしの登場人物じゃないからなんだよ」
 典子はわたしの顔をみて、にっこりと笑った。
「そうじゃなかったら、わたしこんな話、人に言えなかったわ」 

(川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』講談社、2011年)

 これからも顔を合わせる関係であればこんな話は出来ない。十五年ぶりに会うことは会ってみたけれど、十六年目に会うことはない。早川典子はそう言っているように聞こえる。

 では水野は?

「そうだ、あの人、死んじゃったんだよ」
 わたしは思わず典子の顔をみた。
「同窓会のときにきいたの。あの子だよ、ほら」と典子は舌を舐めあわせて、名前を思い出そうとした。
「なんだっけ、名前、男の子で、えっと、あの」

(川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』講談社、2011年)

 しかし肺がんで六年前に死んでいたのは古賀という顔も名前も思いだせない誰かだった。水野は死にさえしない。

 ひとりきりなんだと、わたしは思った。

(川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』講談社、2011年)

 早川典子と別れて冬子はそんなことを思う。確かに思い出の中の最初の友達は、もう友達でも何でもない。冬子は雨の中、三束の通う喫茶店に行ってみる。その日は金曜日なのに。果たしてそこに三束が傘をさして立っていた。

「冬子さん、濡れていますよ」

(川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』講談社、2011年)

 まあ、お下品。セクハラでマイナス50ポイント。



 余談というわけでもないが男性中心の挿入射精スタイルではありながら終わったら寿司を食べる程度に比較的平和なセックスを書いてきた村上春樹に対して、川上未映子は頑としてそういうものを描いてこなかったのではなかろうか。

 問題解決、癒し、和解、心のふれあい、……幸せホルモンが出てくるようなセックスが川上未映子の作品にはない。セックスは相手を傷つける暴力であったり、あるいは浮気という形での裏切りであったり、他人に陰口をきかれる奔放さであったりする。

 そのむかし『夏に恋する女たち』というドラマで津川雅彦が萬田久子に抱きついた際、まさに犬のように腰をかくかくさせて「ガブリ寄り」を見せていた。これは演技というより雄としての本能だろう。こういうものは恐らくポルノ映画でさえなかなか見られないものではなかろうか。
 その本能的なものはプレスリーの腰ふりダンスのようなお上品なものではなく、ある意味種を越えた何か神聖なものだ。

 
 一方女性の側では何という曲かは忘れたが安室奈美恵が全身をぶるっと痙攣させるセクシーな動きがあった。

 川上未映子にはこうしたガブリ寄りと痙攣の幸福な邂逅がない。しかし実際に多くの人たちはガブリ寄りと痙攣の幸福な邂逅を根拠として現に存在しているのではなかろうか。そしてガブリ寄りと痙攣の幸福な邂逅の為に二十五年だか三十年だかのローンを組んで巣を買う。

 川上未映子は男性に癒しを与える巫女的な存在としての女性が男性の身勝手な願望の投影であり、自らその「引用」に陥っていくメスたちが「おまんこつき労働力」であると見えているのであろう。

 本作に於いて、冬子はおそらくガブリ寄りと痙攣の幸福な邂逅でないところに進んでいくのだろう。しかし三束がガブリ寄らないとは断言できない。何故ならまだこの続きを読んでいないからだ。


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