君が代やぺたりぺたりと帝かな 夏目漱石の俳句をどう読むか88
水仙は屋根の上なり煤払
水仙とはこうしていつも屋根の上にあるべきものであろうか。
いやそんなことはなかろう。
これは単に煤払いの煤がかからぬようにと水仙の鉢を屋根に避難させたのだということか。
これは観葉植物しか友達のいない殺し屋レオンのようなものを、一鉢の水仙しか大切なものがないという侘しさの中に創り出そうという狙いか。
とはいえ花から盆栽へとより趣味が枯れていくのが世の習わしである。一体趣味というものは生きるということの本質的な侘しさを少しでも和らげるものであろうか。
ここで「水仙は」と詠まれている通り、床には煤のかかった何物かがあったはずである。だからこそ「水仙は」なのだ。流石に本は避難させられまい。おそらく一番大切なものはそうして煤を被らなくてはならないのだ。
年末の大掃除のせわしさの中に、当時の漱石のミニマムな暮らしぶりが見えるようだ。
寐て聞くやぺたりぺたりと餅の音
以前夜の餅搗について書いた。
尾崎紅葉と漱石がたまたま夜の餅搗きを詠んでいたので、まあ夜にも餅を搗くんだなあというくらいに思っていた。
これも隣家の餅搗きの音を聞いているよとそのままストレートに読めなくはないが、ふと韓国ドラマ『運命のように君を愛している』のセックスシーンが餅つきで表現されていることを思い出した。
韓国語で餅つきはセックスの隠語でもあるようだ。
よくよく考えれば、音だけでは実際に何をしているのかは判断できないものである。果たしてそれが隣家のセックスでは絶対にないと言い切れるものであろうか。
餅搗や小首かたげし鶏の面
このように鶏も疑念を抱いている。
果たして餅搗きなのかセックスなのか。
衣脱だ帝もあるに火燵哉
解説に「衣脱だ帝は醍醐天皇」とある。
延喜帝とは醍醐天皇のこと。
醍醐天皇は他の機会にも衣を脱いでいるので、脱ぎたがりということはないだろうか。
で火燵に当たっているのは誰?
まあ自分か。
つまり自分を天皇と比較しているわけだ。まあそのこと自体が不遜と言えば不遜だが、今の天皇が火燵に当たっていることを批判しているわけではなさそうなので良しとしよう。
いや、批判しているのか?
昔は貧しい民を思って衣を脱手だ帝もいたのに、今ではどうだ、火燵でぬくぬくしてやがると批判しているのか?
君が代や年々に減る厄払
なんか、豪快に間違えている人がいる。君が代が我が世になっている。これ凄いな。誰かに悪戯されたのか。
何にせよ、この辺りでちくちく天皇に絡んでいることは解る。役払いが減るのだからいい方向性なのか?
いえいえ。
この厄払いは厄年の厄払いではない。
この句は「あなたの世になってから大晦日、節分、正月六日、十四日に行っていた厄払いの行事が減ってゆきましたよね、明治天皇さん、それでなんかいいことありましたか?」という意味であろう。
これは厄年の厄払いではなく、年の厄払いで、「厄払ひしましよ厄落とし」と触れ回っていた大みそかの厄払いも明治二十八年には廃れていたということだと思う。(掛け声は地方によってまちまちだったはず。誰か調べてみて。)
しかし岩波書店の解説には厄払いのことは特に何も書かれていない。
解説の人、解ってないやろ?
素直に言うてみ。おっちゃん怒らへんから。
[附記]
真面目な話、時代の風俗はすぐにわからんようになるから、知ってる人はきちんきちんと記録して、オープンなデータにしていかんとあかんな。
これ本当に重要なことやで。
あっちゅうまにみんな分らんようになるで。
火の用心とか、そんなのも。
納豆売りや、そんなのも。
年用意音の出る屁をこいてみる
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