見出し画像

まだ兄弟がいるかもしれない 牧野信一の『凸面鏡』をどう読むか④

 昨日は、凸面鏡で親友の姿が歪み「鼻でか」が現れたと書いた。それにしても日本アイスクリーム協会の野郎、いい加減なことをしやがって……。

 それにしても牧野信一の描く人物の情緒不安定さには呆れてしまう。松枝侯爵は、遺族手当がほしいからと父親から息子を戦死させてもらいたいという手紙が届いたという話を聞いて泣いてしまう。貰い泣きだった。

 決して感傷的ではないこの人が他人の涙に感応するのは、自分の心のはつきりとした固有の形を追跡できなくなつている老いのためだとしか云ひやういようがなかつた。

(三島由紀夫『奔馬』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 例えば前頭前野の働きが鈍ると自分の感情がコントロールできなくなる。このことによる老害というものは確かにある。しかしそれはふつうネガティブな方向に向かうのに対して、牧野の描く人物や猿は急にポジティブにも変化するのである。その意味、理由をいちいち捉えていくことがかなりややこしいということをこれまで具体的に示してきた。それは殆ど無料配布のアイスクリームを貰うくらい困難なことだ。

「買ふの?」と道子が云つた。と、道子が云はなければ自分は買はないだろう、と思ひながら、「あゝ。」と彼は答へた。
 道子は金を払つて一歩遅れて出て来ると、好人物らしい微笑を浮べながら、然もある満足を感じてゐるらしく、
「それ、重宝なの?」と優しく云つた。
「あゝ。」彼は横を向いて答へながら、絵葉書屋の前に立つた。
兄さんはね、純ちやんの事を大変に心配してゐるらしいのよ。此間大変に酔つて帰つた晩……いつものやうに乱暴してね、阿母さんは髪の毛をむしられたし、妾も(涙声で)……止めやうとしたら「殺すぞ。」と怖しい見幕になつて……、
 その後で兄さんは急に泣き出したの、純は居ないか/\ツて……」

(牧野信一『凸面鏡』)

 感情の起伏だけではない。やはり意識の捉え方が独特なのだ。「道子が云はなければ自分は買はないだろう、と思ひながら、」のくだりは普通は「道子が云はなければ自分は買はないつもりだった」と書かれる。「ないだろう、と思ひながら、」と一つクッションが挟まれて、自分の判断を推測していて、自分の意志を捉えていない。書き方としては三島由紀夫とは全く違うのだが、三島由紀夫レベルで人間の心のありようを突き放してみているとはいえようか。

 意識の捉え方だけではない。「道子は金を払つて」とはどういう了見だろう。そもそも道子の嫁入り道具を買いそろえるために銀座に来ていて、資生堂へも道子のものを買うために入ったのではなかったか。こういう場合「純ちゃん」がおごるものではなかろうか。それを平然とやり過ごして話は進んでいく。冒頭で友人の誘いを断る場面の断り方、そしてあっさり帰っていく友人、ここにはあるべき感情がむしろなく、何か説明が抜けている。まるで読者に「道子は金を払つて」というところに引っかかってほしいというようなわざとらしさもなく、ただいい加減に放り出されている。この書きようはすごい。まるで宮城を空爆目標に収めながら、陛下のご命令で死ぬことが出来れば仕合わせだと言わせるくらい凄い。

 設定の単なる分からなさと言う問題でもはない。「兄さんはね」ということは「純ちゃん」は道子の兄ではないのかと、解りかけた設定を壊しに来る。こうなるとまた妹への愛というものが怪しくなり、そもそもの「純ちゃん」と道子の関係性を考えなくてはならなくなり、「道子は金を払つて」がもう一度わからなくなる。これは私の前頭前野の働きが弱っているからなのであろうか。

 解りかけた設定を壊すだけではない。「純ちやんの事を大変に心配してゐるらしいのよ」が「純は居ないか/\ツて……」につながることは解る。しかしそもそも「大変に酔つて帰つた晩」に「純ちゃん」はおうちにいなかった? どこかに泊まり? 何故心配しているの?

 で「いつものやうに乱暴してね、阿母さんは髪の毛をむしられたし」って禿げるよ。それからお父さんはいないの? アメリカ?

 しかも妹に対して「殺すぞ。」って……。

「ほんとうに兄さんには困つた……何しろ病気が病気なんだからね。」彼は涙ぐましい気持になつて珍らしくもしむみりと道子に答へた。
「……純が若し気でも触れたらどうしやう、と兄さんは泣くのよ。……純は何故勉強しないのだらう、一体何処の学校へ入るつもりなのか、何になるつもりなのか、俺はそれが心配で狂ひさうだ。……彼奴には俺の腹が解りさうもない、俺はどうしたらいゝんだらう、彼奴は気狂ひぢやないのかしら、人にこんなに心配を掛けて……とそんなことを切りに云つてゐたわ。――まさかね。」道子は寂し気に笑つた。
「兄さんはそんなに僕の事を心配してゐるのかね。」彼はこみ上げて来る涙を辛じて堪へた。兄の病気にそれ程まで自分の事が係つてゐるかと思ふと悲しさに堪へられなかつた。
 ――兄の胸にとりすがつて心ゆくばかり泣き度い、気持がした。自分の小さな決心に依つて多少でも兄を慰めることが出来るのならば、どんな苦しみも厭ふまい……先づ兄の前で心からの決心を持つて「勉強します。」と云はう、と彼は堅く思つた。

(牧野信一『凸面鏡』)

 ここは「純若し気でも触れたらどうしやう」で「も」じゃないんだなあ。「何しろ病気が病気なんだからね」というくらいだから病気であることは解る。どうも精神の病気のようだ。三人兄弟で純が次男、やはり道子は妹なのか。

 この「俺はそれが心配で狂ひさうだ」と「彼奴は気狂ひぢやないのかしら」という台詞のアンバランスは、これが道子の創意でなければやはり「兄さん」の狂気性を証明している。ところが純はあくまでも「兄さんはそんなに僕の事を心配してゐるのかね」と言ってみる。確かに純はあまり勉強熱心ではないのかもしれないが、弟の心学の心配だけで球がおかしくなる兄もいないだろう。この真面目に受け取る態度もどこかおかしい。

 しかし、ということはだよ、道子だけは真面なんてことがありうるものかね?

 つまりどこかおかしいかもしれない道子が誰だかわからない恋人と別れて、別の誰かのところへ嫁ごうとしている、という話なのか。道子の結婚相手は、道子に頭のおかしい兄が二人もいることを知っているのか?

 え?

 いまはそういう差別はいけない?

 そりゃそうだ。どうもすんずれいしますた。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?