それは見えていないのかもしれない 芥川龍之介の俳句をどう読むか24
金柑は葉越しに高し今朝の霜
この句は殆ど鑑賞されていないようだ。「葉越しに高し今朝の霜」が解らないのではないか。
鶴の巣も見らるゝ花の葉こし哉
という芭蕉の句がある。鶴の巣は四月五月、桜は三月四月。金柑の実は秋の季語、花は夏の季語となる。また白桃の罠が仕掛けられている?
いや、霜があるのだから花はなかろう。
この金柑は実で良い。
金柑は葉越しに高し今朝の霜
……の句には「湯河原温泉」の文字が添えられていている。湯河原温泉と言えば大正十年十月一日から二十日の間逗留し『トロッコ』を書いたことになっている。トロトロした子供の話を書いた傑作だ。
しかし湯河原で十月二十日で霜はまだ早い。
大正十五年一月かと思うが確証はない。金柑の実そのものの旬は一月から三月と遅く、晩秋というよりむしろ冬である。
しかも問題はそこではない。
これは「高し」と書いていながら上を見ているようで地面を見ているおかしな句だ。
葛の葉の表見せけり今朝の霜 芭蕉
https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/shimo.htm
しかしおかしいからと意味を深堀していては切りがない。一応、
金柑は葉越しに高し今朝の霜
この句は首を縦に振る句ではなく、「初霜が降りるくらい寒くなったので、見上げるような高さに金柑の実がなっていることだなあ」という程度の理解でいいのではないか。
金柑や葉に勝つほどの実もならず 大魯
しかし金柑の実はこう詠まれるほどのものなので、写実かどうかは甚だ疑わしい。初霜も踏むもので眺めるものではない。
【余談】
おっしゃる通り。
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