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野菜も残さず食べなさい 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む38

 平野啓一郎は『豊饒の海』の物語構造を捉えるため、「5「生まれ変わり」の由来」「12 唯識における輪廻」「41 勲の転生」 などで繰り返し転生というものの考え方を確認して来た。
 特に「12 唯識における輪廻」において「仏滅後に、それが教理として体系化されていった」というところの阿頼耶識による転生というものを確認し、最終的な三島の転生観としたい様子が見られる。

 しかしながら『豊饒の海』の物語において最初に転生の問題が議論されるのは『春の雪』の三十三章、シャムの王子らとの間で交わされるものなので、作品論としては先ずシャムの原始的な神話としての生まれ変わりの確認をしておいて、その変化を見るべきであろう。伝記的記述を過剰に詰め込むという平野のやり方はむしろ物語を捉えにくくするものだ。

 ジャオ・ピーは仏陀が金の白鳥だったころの物語を話して聞かせる。そもそもそれを誰が見たんだというような御伽噺であるにもかかわらず、「転生を信じるかどうか」という議論になる。

 清顕は眼で本多にパスする形で逃げる。そして本多はここで否定的見解を述べる。次の人生に何の痕跡も留めないということはそもそも一個の個体であるのと同じ意味であり、生まれ変わりとは決して確証のあり得ない無駄な努力だというのである。極めて常識的な意見である。しかし本多の見解はそこに留まらない。生まれ変わりとは死の側から制を眺めた表現に過ぎないのではないかとまで言ってみるのだ。

 ジャオ・ピーの反論はいかにも三島らしい。

「一つの思想が、ちがふ個体の中へ、時を隔てて受け継がれてゆくのは、君も認めるでせう。それなら又、同じ個体が、別々の思想の中へまた時を隔てて受け継がれてゆくとしても、ふしぎはないでせう」

(三島由紀夫『春の雪』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 三島由紀夫らしいというのはいきなり全力では来ないというところである。ここで平野が注目すべきはまさに三島由紀夫のレトリックなのだ。ジャオ・ピーはわざと「個体」と言ってみる。お互い英語で会話をしている前提なので「individual」とでもいったと仮定しよう。日本語で「個体」と言ってもその意味はないけれども哲学的には「individual」は「分けられないもの」で、敢えて言えば「個人の肉体」というより「核」、仏教的に言えば種子に近いニュアンスにはなる。しかしここで行われている議論は「個体」と言われていることから識論からははるかに遠い原始的なカルマ論の手前、三島流屁理屈に見えなくもない。

 ただ三島流屁理屈はこの通り本来交換法則の成り立たなところに交換法則を当てはめてしまうので、この通りのものが出来上がるわけである。そのことはまたこう説明し直される。

「生まれ変わりの考へは、それを個体と呼ぶんです。肉体が連続しなくても、妄念が連続するなら、同じ個体と考へて差し支えはずに、『一つの生の流れ』と呼んだらいいかもしれない。

(三島由紀夫『春の雪』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 妄念とは「迷いの心」。生まれ変わりはカルマであり、解脱が悟りなので、ジャオ・ピーの説明は原始仏教ぽくはなる。ここで三島は突き詰めない。輪廻転生の話で「それが教理として体系化されていった」ところの困難さは、何を連携キーとするかのこじつけの難しさにあったといえよう。多くの仏教宗派は霊魂というものを否定している。

 すると何が転生を繋ぐのかというところでアートマンに変わって考え出された屁理屈の一つが阿頼耶識である。ジャオ・ピーの『一つの生の流れ』理論は唯識の考え方とは根本的に異なる。

 三島由紀夫は先ずそういうものを持ち出してきて於いて、転生とは何ぞや、そういうものがありうるのか、あったとしてどうなのかと読者に考えさせようとしている。これが『豊饒の海』という作品の一つの物語の流れなのである。それをいきなり唯識論から説き始めるとおかしくなる。その話は本多が月修寺で門跡から聞かされる流れなのに、ただ自分が知っているからといきなり持ち出すものではない。

 本多はジャオ・ピーの『一つの生の流れ』理論を受けて、一つの思想でありうるかもしれないと考える。清顕はこの議論には参加しない。

 さて輪廻転生がありうるかどうかという話はここでいったん中断して、三十四章では清顕と聡子の逢瀬が繰り返される話になる。清顕は夢の中で飯沼に『あなたは荒ぶる神だ。それにちがひない』と言われる。

 例の「感情の戦争」がこじつけられようとしているのか。平野は「22 「文化意志」としての清顕」で「感情の戦争」について取り上げながら、

 清顕が求めているのは、明治維新のような公的領域の「大義」ではなく、あくまで私的領域の「何か決定的なもの」であり、「身を挺する」に値する恋愛とその対象であり、「雅び」であり、生を実感できる自身の「本物の感情」である。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 この平野啓一郎の説明が解りやすいのは確かである。確かに「感情の戦争」ではなく「感情の時代」とでも言っていてくれれば、その通りだろう。しかしこれが「行為の戦争」と対になる「感情の戦争」であろうか。
 そしてもったいらしく持ち出されてきた「荒ぶる神」とは何なのか。

 結局平野啓一郎の『三島由紀夫論』というものは最中や菓子パン、そして
「荒ぶる神」と言った分かりにくさを排除して辛うじて成立しているものなのだ。特に『春の雪』に関して言えば、悲恋の話として片づけられないものは徹底して排除されている。清顕と本多の反乃木イズムなどは、「十代の精神に回帰」というストーリーの邪魔になるから触れられない。勘違いや見落としにしてはどうも回数が多すぎるし、この人の明晰さからしてどうも信じがたい。こういうやりかたをおためごかしというんじゃなかったっけ?

 出鱈目を書いて金が欲しいのか?

 そんなことをしてもいずれ嘘はばれる。間違いは間違いだと指摘される。一体何がしたかったのか……。

 一人の若者が私的領域で聡子に恋をしてセックスをして夢中になって生を実感できる自身の「本物の感情」に突き進む中、何故「あなたは荒ぶる神だ。それにちがひない」といわれねばならないのか。

 荒ぶる神とは狭義にはスサノオのことを指し、概念的には高天原の神、或いは天皇に従わない神を指す。端的に言って天皇のシンメトリーであり、そもそも人間ではない。

 神とは人間のなにがしかの願望を担う役割を追うものであろう。神とは祈られるべき対象だ。その責任を負っている。

 つまり私的領域に留まり、「文化意志」として個人的な恋愛などできる立場でもない。

 無論平野啓一郎を騙すために、三十四章では清顕と聡子の逢瀬が繰り返される話になるのである。本多は清顕のために五井家の御曹司に運転手付き自動車を借りる。それで聡子を清顕のもとへ運ぶのだ。
 
 何と私的領域である事よ。

 この後荒ぶる神がどういう形で具体化されるのか、まだ誰も知らない。何故ならまだ書いていないからだ。

 [余談]

 私などは毎日自分の肉体に輪廻転生しているわけなのだが、この〈私〉の間違えなさ具合、〈私〉の意識というものが必ず私の肉体にだけ転生することを永井均は比類なき〈私〉と呼んだわけではないのだ。そこはシステムではなく永井均だけに特異的に表れた〈私〉だけのできごとなのだから比類なき〈私〉理論で輪廻転生は否定できない。

[余談②] 

 また宣伝もしていない98円の本が売れた。君ら本当にお金がないのね。


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