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これに気がついていた人はまあいないだろう 芥川龍之介の『誘惑』をどう読むか⑦

 昨日はもやしがいくらなのか解らないという話を書いた。いや、芥川がとにかくもう考えうる限り最大の宇宙空間を捉えたというところまで読んだ。これは漱石の想像よりはるかにスケールが大きい。

 限りなき星霜を経て固りかかった地球の皮が熱を得て溶解し、なお膨脹して瓦斯に変形すると同時に、他の天体もまたこれに等しき革命を受けて、今日まで分離して運行した軌道と軌道の間が隙間なく充たされた時、今の秩序ある太陽系は日月星辰の区別を失って、爛たる一大火雲のごとくに盤旋するだろう。さらに想像を逆さまにして、この星雲が熱を失って収縮し、収縮すると共に回転し、回転しながらに外部の一片を振りちぎりつつ進行するさまを思うと、海陸空気歴然と整えるわが地球の昔は、すべてこれ燄々たる一塊の瓦斯に過ぎないという結論になる。

(夏目漱石『思い出すことなど』)

 しかし師匠ほどのダイナミズムには欠ける。まあ、普通の焼きそばとカップ焼きそばのような根本のところの違いがある。

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 前の山みち。円光を頂いた「さん・せばすちあん」は二つの影を落したまま、静かに山みちを下って来る。それから樟の木の根もとに佇み、じっと彼の足もとを見つめる。

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 芥川は複雑な構成の長篇小説が書けないというコンプレックスを隠ぺいしていたのだろうか。インフレーションを起こすのかと見えた物語は、まるでアンチクライマックスを目指すかのようにやさしくなだめられ、また素朴で大人しい小さな画にもどる。なんなら何の役目も果たさなかった誰かの姿はもうない?

 ここには「さん・せばすちあん」の二つの影があるのであり、円光と星明りの二つの光源が一人の「さん・せばすちあん」に二つの影を拵えて居るのか。

彼の影は左には勿論もちろん、右にももう一つ落ちている。しかもその又右の影は鍔の広い帽子をかぶり、長いマントルをまとっている。

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 よくよく読むとこれは確かに「さん・せばすちあん」のほかに誰かがいるわけではなく、「さん・せばすちあん」には二つの影があり、右の影は「さん・せばすちあん」とは異なる装いをしているという意味ではないか。

 賺しの連続。

 寸断された画からは物語さえ生まれない。

 アンチクライマックス、アンチストーリー。

 すべての物語は始まりのシーンがある以上それ以前の来歴の喪失から始まるとして、素朴な因果律を否定し、アンチクライマックス、アンチストーリーを宣言して書かれた小説があった。それはありきたりにカフカ的と評された。確かにカフカの小説にもそんなところがある。
 しかしそもそも『鼻』こそは『今昔物語集』が持っていたストーリー性を排除し、因果律も排除し、せっかく短くなった鼻が何故か元通り長くなってしまうという、クライマックスに欠いた小説ではなかったか。
 くしゃみの速度は時速160~320km。『芋粥』は予定調和の穏やかな話を破裂させた。

 芥川という作家はよくできたお話にあらがい続けた。

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 斜めに上から見おろした山みち。山みちには月の光の中に石ころが一つ転がっている。石ころは次第に石斧に変り、それから又短剣に変り、最後にピストルに変ってしまう。しかしそれももうピストルではない。いつか又もとのように唯の石ころに変っている。

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 空撮。寄り。

 石ころというおおよそ比喩的な意味でもつまらないものの象徴であるものは、寓意を持ちかけて、すぐにやめてしまう。石ころは石ころに留まるべきだと通りすがりの人に諭すのでもない。

 最も原始的な武器である石は、石斧から短剣に、短剣からピストルにとより複雑な武器へと進化して攻撃性を高めるが、何かちょっとしたきっかけで突然やる気を失ってしまう令和の新入社員のように石ころに戻ってしまう。

 それでも幽かに意味を漂わせるが、むしろその意味は消えてしまったと言ってよいかもしれない。水兵を刺したナイフともつながらない。せめて短剣と書かずナイフと書かれていたら、馬鹿な大学生はそれが図書館の本なのにお構いなしで線を引いてしまうかもしれない。しかし短剣はナイフではない。ピストルはこの章にしか出てこないだろう。(多分。)

 それは足元を見つめる「さん・せばすちあん」にとって何かの誘惑になりえただろうか。「さん・せばすちあん」は誰かに対する激しい殺意を隠ぺいしているのだろうか。隠ぺいはQRコード決済に対応しているのだろうか。
 それは石ころで十分な殺意だろうか。

 いやまてよ。

 足元を見つめる「さん・せばすちあん」からの「斜めに上から見おろした山みち」ってカメラはやはりドローンのように舞い上がっているじゃないか。クレーン撮影?

 そこからの石ころへの寄り。

 石ころの変化はモーフィング。

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 前の山みち。「さん・せばすちあん」は立ち止まったまま、やはり足もとを見つめている。影の二つあることも変りはない。それから今度は頭を挙げ、樟の木の幹を眺めはじめる。………

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 やはり芥川には私の書いている文字が読めるのだろうか。また敢えて静かな平凡な絵に戻る。いや、平凡ではないな。そこにはあり得ない二つの影があるのだ。そしてずっと勿体らしく置かれていた樟の木の幹が眺められる。このというのがすごいところだ。

 これもよくよく読めばという話になる。

 これまで「樟の木の枝」と書かれていて「枝」の文字は五回現れた。しかし「幹」の文字が出てきたのはこの章が初めてなのだ。芥川はここで読者の記憶を試し、樟の木の無標性を指し示しているのだ。それは尻尾の長い猿が座っていた「樟の木の枝」ではなく、この物語の中には初めて出てくる特に意味を持ちえないただの「樟の木の幹」だと我々を賺しているのだ。

 それは帰宅ラッシュの満員電車で慎重に賺された未婚で間もなく親の介護を始めるOLのすかしっ屁のように百年間無視されてきたものではないか。

 いや百年前には帰宅ラッシュの満員電車で屁を賺す未婚で間もなく親の介護を始めるOLはいない。

 つまり外に比較するものがないほどの絶対的な賺しがここにあるのだ。

 この賺しは凄い。

 実に文学的で、なおかつちょっと他に類似の例が思い浮かばない。殆ど初めて見るレトリックだ。

 枝

 枝

 枝

 枝

 幹

 これは凄い。

 

 今何か応用例を作ろうかと思ったがぱっと真似できるものでもない。

 これは凄い。しかしこの凄さも誰にも伝わらないんだろうな。

[余談]

 増えてきたなと思う。

 明らかに増えてきた。

 これは減らないだろう。

 このままでいいのかな。

 結構おかしいのもいる。

 何故か自転車で爆音で音楽かけて疾走しているのとか。

 完全に信号無視とか。

 なんとかならんのか。

いや言い回し。



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