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何かが押しとどめている 芥川龍之介の『誘惑』をどう読むか⑩

 昨日は女が笑い始めた理由について書いた。

  繰り返し意味をはぐらかしながら、やはり話を拵える為に凝った仕掛けをしてくる。この「知的ひねり」が芥川作品の魅力の一つであることは間違いない。女は「突然男に飛びかかり、無造作に床の上に押し倒してしまう」という人形の失態の時点では笑っていない。「紅毛人の女は部屋の隅に飛びのき、両手に頬を抑えたまま」とあるのでまずは驚き、そして何かを観察している。それから「急にとめどなしに笑いはじめる。」のだから、女が見たものはの人形のその後の動作である。この書き方はまた実に知的だ。この後の人形の動作を何にしてもいいのだが一番笑えるのは腰ふりであろうというのは決して無理な考えでもあるまい。

 そしてまた飛び掛かる人形という、現代科学がやっと追いついたものを芥川がやすやすと思い描いていることに驚いた。その技術に縛られない先進性は何か理屈を超えたものである。なんというか段取りを踏んでいない。つまり『誘惑』が遠い未来の話だとも仮定されていないので、ひざや踵の構造をどのように考えていたのかが不思議なのである。考えないで単に文字の連なりとしてそういうものを書いた、ナンセンスとして書いたのだとして、現在の科学技術が何とかそこに追いついてしまったので、そんな百年前の未来、つまり現在が『誘惑』を不思議な作品にしてしまっているのだが。

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 望遠鏡に映った第五の光景。今度も亦前の部屋と変りはない。唯前と変っているのは誰もそこにいないことである。そのうちに突然部屋全体は凄じい煙の中に爆発してしまう。あとは唯一面の焼野原ばかり。が、それも暫くすると、一本の柳が川のほとりに生えた、草の長い野原に変りはじめる。その又野原から舞い上る、何羽とも知れない白鷺の一群。………

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 同じ部屋に別の景色。ここでは部屋はただ映像が映し出されるスクリーンと等価である。そこは船の中だというのに焼け野原となり、草原となり、白鷺の群れが飛び立つ……。
 また、ただあり得ない、物語のない景色。

 これが印象派だと言われてみても、やはり言葉の芸術としては間が持たない。

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 前の岬の上。「さん・せばすちあん」は望遠鏡を持ち、何か船長と話している。船長はちょっと頭を振り、空の星を一つとって見せる。「さん・せばすちあん」は身をすさらせ、慌て十字を切ろうとする。が、今度は切れないらしい。船長は星を手の平にのせ、彼に「見ろ」と云う手真似をする。

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 これが稲垣足穂の『一千一秒物語』のひそみに倣ったものであるかどうか、私には判然としない。少しは似ているのではないかと思うのだが、例えば「が、今度は切れないらしい」といったひねりがまた独特な感じもある。この含みは何だろうと考えつつ、「見ろ」と云う手真似にも戸惑わされる。「指さす」以外の手真似があるのだろうか。

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 星をのせた船長の手の平。星は徐ろに石ころに変り、石ころは又馬鈴薯に変り、馬鈴薯は三度目に蝶に変り、蝶は最後に極く小さい軍服姿のナポレオンに変ってしまう。ナポレオンは手の平のまん中に立ち、ちょっとあたりを眺めた後、くるりとこちらへ背中を向けると、手の平の外へ小便をする。

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 ナポレオンはおちんちんを見られたくないのだろうか。当時の軍服だと、どうも股間にファスナーのようなものはなさそうなので、小便をするにもおしりは出さなくてはならないように思う。

 ナポレオンの没年は1821年、ファスナーが発明されるのはその七十年後である。ここで見えないナポレオンの股間は、読者の想像に委ねられている。英雄のおちんちんばかりではない。そこにファスナーはあるのか、子供のようにおしりから丸出しなのか。

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 前の山みち。「さん・せばすちあん」は船長のあとからすごすごそこへ帰って来る。船長はちょっと立ちどまり、丁度金の輪でもはずすように「さん・せばすちあん」の円光をとってしまう。それから彼等は樟の木の下にもう一度何か話しはじめる。みちの上に落ちた円光は徐ろに大きい懐中時計になる。時刻は二時三十分。

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 ナポレオンの始末は書かれない。小便でマントルが濡れたとも何も。そんなものはもともと石ころやジャガイモと等価なもので、単なる一つの星だったのだから。

 ところが「みちの上に落ちた円光は徐ろに大きい懐中時計になる」ということは、ナポレオンもただ意味のないものとしてみちの上に落ちたのか、と思わせるような書き方がされている。あるいはナポレオンもみちの上に落ちた後何かに変化したに違いないと。

 例えばあなたならどうするだろうか。

 私ならナポレオンの小便が終わるのを待っていられない。直ちに地面に捨てるだろう。

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 この山みちのうねったあたり。但し今度は木や岩は勿論、山みちに立った彼等自身も斜めに上から見おろしている。月の光の中の風景はいつか無数の男女に満ちた近代のカッフェに変ってしまう。彼等の後は楽器の森。尤もまん中に立った彼等を始め、何も彼も鱗のように細かい。

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 再び舞い上がるドローンカメラ。

 それはそれでいいとして、「月の光の中の風景は」と記憶力を試してくる。「星ばかり点々とかがやいた空」が二十七章、「広い暗やみの中に懸った幾つかの太陽」が二十八章、「山みちには月の光の中に石ころが一つ転がっている」が三十章、「月の光を受けた樟の木の幹」が三十二章。
 つまり三十五章の「海を見おろした岬の上」は月明かりに照らされた夜の岬で「男女に満ちた近代のカッフェ」もまた夜のカッフェなのか。ナポレオンのおしりまたはおちんちんは月明かりに照らされていたのだし、懐中時計が正確ならもう真夜中なのだ。

 近代のカッフェは深夜二時まで店を開けていないだろう。そもそもまともな人間なら寝ている時間だ。ならば所詮円光が化けた懐中時計など当てにならないものだということか。

 それにしてもこの「彼等を始め、何も彼も鱗のように細かい」とは?

 それはこのカッフェの天井をぶち抜き思いっきりの高さから彼らを撮影しているという意味であろうか。勿論どんなに大きなセットを組もうと、対象物を小さくするためには画角は広がるので周囲の建物までもが画の中に入ってしまうが、芥川は実際そんな動画を撮影している訳もないので建物の中が丸い画に収まり周りには日の丸の白地のような余白があるものと考えようか。

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 このカッフェの内部。「さん・せばすちあん」は大勢の踊り子達にとり囲まれたまま、当惑そうにあたりを眺めている。そこへ時々降って来る花束。踊り子達は彼に酒をすすめたり、彼の頸にぶら下ったりする。が、顔をしかめた彼はどうすることも出来ないらしい。紅毛人の船長はこう云う彼の真後ろに立ち、不相変らず冷笑を浮べた顔を丁度半分だけ覗かせている。

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 また『誘惑』らしくなった。「が、顔をしかめた彼はどうすることも出来ないらしい」とあくまで「さん・せばすちあん」はふみとどまる。踊り子たちの衣装は書かれない。無数の男もどこかへ消えてしまった。何割かは踊り子に化けたのだろうか。そもそも踊り子というだけで女とは限らない。踊り子にはついているのかいなのか。

 踊り子が女給のように振る舞い、踊らない。楽器は演奏されている気配がない。印象派だから「踊り子」、ドガが意識されているのであろうがこれまでに散りばめられたさまざまな名詞が全て印象派にちなんでいるとも思えず、といいながら「印象派 オランダ人」はゴッホだな、「印象派 水夫」だとポール・ゴーガン、「印象派 蝙蝠」これもゴッホか、「穂麦を刈り干している」これもゴッホか、「糸車」「桜の枝」これもゴッホかと一応はあれこれ見返してみる。おそらくここにはぼんやりとした「ちなみ」がないわけではなかろう。

 しかしゴッホの薔薇は赤くはなく、白鷺の画もない。宗教画を一切書いていないのでキリストの受難の画もない。

 何かが散りばめられた感じはあるものの、そこは何か踏みとどまっている。

 そして例によって「丁度半分」で見切れた紅毛人の船長の顔は右か左か上か下か解らない。

 解らないところで今日はここまで。


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