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前は違ったのだ 牧野信一の『凸面鏡』をどう読むか⑤

 昨日は牧野の設定崩しに振り回された。

 ちょんちょん軽めの足払いでけん制しておいて、掴んだ奥襟と右手の袖を左右に振り回し、一気に担ぎ上げて足で跳ね上げるような、軽快なサンボの投げだった。モンゴル相撲ではこうはいかない。

 しかし牧野は相手をひっくり返したところでとどめを刺しに来る。

 ……その矢先彼は、道子の口から極めて案外な(勿論初めて聞いた。)言葉を聞された。然もそれが道子にとつては左程の不自然さもなく云はれてゐるらしかつた。
妾の結婚と云ふ事は兄さんには無論秘密なのよ。だけどもう薄々気が附いたらしいわ。困つて仕舞つたのよ……此間のやうな勢ひじや兄さんは妾を殺すかも知れなかつたわ。」

(牧野信一『凸面鏡』)

 頭がおかしい兄には、妹の結婚を知らせない方がいいという配慮があったのか。しかし何のために?
 これ以上心配事を増やさないように?

 それとも妹が結婚すると解ると兄が怒らねばならないような理由があるものだろうか。それがあるとすれば、やはりそこには妹に対する独占欲、つまり歪んだ愛があるのではないかと疑われても仕方ないのではあるまいか。道子は二人の兄から惚れられ、求められているのだろうか。

 ならばそんな家からは早く離れた方がいい。

 感情に説明をつける事は容易だつたが、説明を附ける事が余りに怖しく滑稽さへ感ぜられて……その夜彼は机の前に座つた儘ぼんやりとしていつまでも寝やうとしなかつた。
 道子に買つて貰つた鏡を解いて、大きく写つた顔を凝と視詰めた。……力一杯自分を殴ることが出来たらどんなに愉快だらう、と思つた。

(牧野信一『凸面鏡』)

 これは兄の妹に対する異常な意識を発見し、さらには妹の兄に対する警戒感と拒絶を発見し、改めて鏡を見るようにして、兄が妹に恋することの悍ましさを突き付けられた感じ、というところであろうか。

 ここで牧野が凄いのは「道子に買つて貰つた鏡」とさらりと書いてみて「大きく写つた顔」と「鼻でか」を出現させているところだ。仄めかしておいて具体化する。こうなるとやはり道子は探偵として獲物を得ていて、自分が嫁ぐということの慰謝として純に凸面鏡を買い与えたのか、自分の顔をよく見ろと牧野が凸面鏡を選んだのか分からなくなる。

 それでも純のほうが道子からはさほど警戒されていないから結婚のことを知らされていたという理屈にはなるが、純は手紙の反古で鼻を噛んでいたのである。つまり、兄が警戒されているのは純の嫉妬の所為なのかもしれないのだ。鼻が噛まれた手紙の反古は、その痕跡からすぐに「あの頭のおかしい兄は私に嫉妬しているんだわ」という警戒を引き起こしたに違いない。つまり今純が警戒されていないのは、すべて道子の誤解で、兄はただ頭がおかしいからと言って、妹に惚れて嫉妬している危険人物と間違われているだけなのかもしれないのだ。

「純ちやん、妾が居なくなると喧嘩の相手がなくなつていゝでせう。」
「ほんとだ、余ツ程いゝ、煩くなくつて。」
「だけどね、戯談でなくさ、よく勉強してね、さうして今年こそは及第してお呉れ、ね。」
「余計なお世話だい。」戯談の形式で且充分さう響くやうに努めてゐつたのだつたが、「戯談でなくさ。」と彼の表現の希望通りに棄てられてみると、グツト癪に触つて、――と、冷かに答へたが、同時に冷に過ぎたかな、といふ気がすると、ハツと思つた、で彼は続けて、「勉強なんかするもんか。」と頼りない強迫的の気持で云つた。
「どうして純ちやんは此頃さう意固地になつたのでせう。妾が何か云ふと直ぐに喧嘩越になるか、ひやかすか……少しも妾の云ふ事を真面目に聞いて呉れないのね。」道子の眼眦は桃色に上気して、もう露のやうな涙が光つて見へた。
「――――」
「いゝよ、たんと妾に心配させなさい。」道子は立ち上らうとした。概念的なこの思ひ切りのいゝ道子の態度で「とても敵はない。」と彼は思つた。道ちやん許してお呉れ、どうか棄てないでもう少し今の通りでいゝから優しい言葉を掛けてお呉れ、と念じながら、

(牧野信一『凸面鏡』)

 そう。純が意固地になったのは、道子の婚約の所為なのだ。しかし反省はない。この恋は自分からは捨てられないのだ。「どうか棄てないでもう少し今の通りでいゝから優しい言葉を掛けてお呉れ」とはとても兄の考えることではない。恋のことばかりでなく、彼は感情のコントロールというものが出来ないようだ。しかし純粋な自身の感情に突き動かされている訳ではなく、感情と言葉が一致せず、何なら言葉もコントロールできていない。

 道子はここにきてかなり正常である。おかしいところは見られなくなった。

 しかし牧野がおかしい。「概念的なこの思ひ切りのいゝ道子の態度」とは何だ?

 概念的な態度?

 立ち上がることが?

 個々の特性は見ず、共通点だけを大まかに取りあげるさま。 ときに、現実味に欠ける、具体的でない。そんな立ち上がり方というものがあるだろうか。

 概念的なニラもやし卵炒め、そんなものはなかろう。

 大体立ち上がるって、今まで何処に座っていたのだ?

 そんなことはどこにも書かれていない。やってくれるな。この男。

[附記]

 これをスラスラ読める人はいないと思う。平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読んではっきり分かった。ちょっとひねると誰もついてこられない。証明しよう。

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