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思想性じゃないんだよ 芥川龍之介の『誘惑』をどう読むか⑪

 昨日は印象派にちなもうとするあれこれの事物があくまでもその無標性を維持しながら有標へと誘っていると書いた。

 そんなことは書いていないな。しかし芥川が「ちなみ」というか「有標性」というかは別として、何かを「あの何か」に仕立てようとしては取りやめ、物語と信仰を拒否し、その実ところどころに怪しい仕掛けを巡らせて読者を試していることは間違いないのだ。

 そして一旦印象派に気が付いてしまうと、脳は意味を求めずは置かない。

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 前のカッフエの床。床の上には靴をはいた足が幾つも絶えず動いている。それ等の足は又いつの間にか馬の足や鶴の足や鹿の足に変っている。

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 これだけのことが書かれてもドガの『競走馬』が、ゴッホの花魁が、とつい書いてしまいそうなところ鹿と言われて写実主義のクールベが押しとどめる。そんなに簡単に意味は固定されない。言葉は表層に留まる。

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 前のカッフエの隅。金鈕の服を着た黒人が一人大きい太鼓を打っている。この黒人も亦いつの間にか一本の樟の木に変ってしまう。

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 モネの『睡蓮』も太鼓橋だがと考え始めるともはや収拾がつかなくなる。ともかく見ここには何かが現れるのだが何もかもが不確かで明確な意味は持たない。
 ところで今並行して平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読みながら、ずっと「小説って結局思想なのかな?」とずっと考えている。平野は三島が森鴎外やトーーマス・マンの文体を意識していることは認めているが、その議論はあまりにも思想性に寄っている。その理屈では『誘惑――或シナリオ――』など殆ど「無思想」の一言で片づけられてしまう。
 しかし、小説って結局思想なのかな?

 私は「急にとめどなしに笑いはじめる」というような書き方を、凄いと思う。こういう書き方を芥川は何度もやって見せた。作家の作家性というのは、つまり文学の本質的なところはそんなところにもあるのではなかろうか。

 金鈕の服を着た黒人は一本の樟の木に変ってしまうが、それが今まで出てきた樟の木だとは思えない。しかしなんとなく関係があるようにも感じてしまう。あるようでないようで、ないようであるようで、芥川は漱石文学を基本的には継承していないのではないかと考えているけれど、ここには漱石以上の幻惑がある。勿論何かが何かに変化することにも既に飽き飽きしている。意味が欲しい。そう思えば、

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 前の山みち。船長は腕を組んだまま、樟の木の根もとに気を失った「さん・せばすちあん」を見おろしている。それから彼を抱き起し、半ば彼を引きずるように向うの洞穴へ登って行く。

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 やはり「樟の木」がシーンを繋いでくる。完全な意味にはならない。完全な無意味にもならない。そのあわいを奇妙な者たちが揺蕩う。何かわかりやすいところには落ちない。徹底して賺す。天皇も愛もない。性的マイノリティであることのコンプレックスもない。これが小説なのだろうかと考えてみる。

 おそらくこれは小説である。

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 前の洞穴の内部。但し今度も外部に面している。月の光はもう落ちていない。が、彼等の帰って来た時にはおのずからあたりも薄明るくなっている。「さん・せばすちあん」は船長を捉え、もう一度熱心に話しかける。船長はやはり冷笑したきり、何とも彼の言葉に答えないらしい。が、やっと二こと三ことしゃべると、未だに薄暗い岩のかげを指さし、彼に「見ろ」と云う手真似をする。

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 しかしまた私はこれが当時の技術水準からして突拍子もないカメラワークが駆使された先進的な小説であることを強調しながら、当時の技術水準に抑制された無声映画のシナリオのようにふるまう小説であることも認めねばなるまい。彼らはカギ括弧に台詞を入れない。手真似し、話しかけるが声は聞こえない。ところが芥川はやはり「金鈕」という当時の白黒映画では表現できないものを出してきた。これまで明確に青とか赤とか黄色とか、そういう色彩表現は控えられていた。それまでは白と黒と、つまり明暗で表現されないものは極力避けられていた。

 この瞬間にこれまで見てきたものをすべて白黒の世界に変換したあなたの脳の中で、黒人の肌は闇と見まがい、白目が闇の中に浮かび上がることになる。二度の殺しで流れたはずの血の赤は黒に置き換えられる。花束は灰色の濃淡に変わり、紅毛人の髪の毛は薄白髪に変わる。

 金釦は銀釦と見分けがつかなくなる。

 おそらくそこを含めてこれは小説である。あなたの頭の中から色彩が消えて、全ての画のコマが落ちて動きがかくかくしてレトロ感を出してきたらそれが小説なのではないか。メイクが濃くなり、芝居が大きくなれば、それが小説ではないか。

 言葉に脳が支配される快感、これが文学の胆ではないか。この快感にたどり着けない人はただただ不幸である。

 落ちは最後にあるけれどそれはまだ誰も知らない。何故ならまだ読んでいないからだ。


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