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その時三島の〈天皇〉はいない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む43

 平野啓一郎の『三島由紀夫論』は小林秀雄賞を受賞している。このことはあの國分功一郎までもが三島由紀夫作品をほとんど読んでいないか、すっかり内容を忘れてしまっているという残念な事実を意味することになろうか。

 この人の『はじめてのスピノザ』を読んだ時、本当に頭の良い人というのはこういうものかと感心した記憶がある。しかししばしば柄谷行人に惑わされるなど、残念なところがあったのも事実である。もしも平野啓一郎の『三島由紀夫論』を國分功一郎が本気で小林秀雄賞に選んだのだとしたら、すべては私の勘違いだったのかもしれない。

 
 先日明らかにしたように、平野啓一郎の『三島由紀夫論』の瑕疵は三島由紀夫作品と付け合わせた場合のみに明らかになるものに限られないので、そこには國分功一郎が心底疲労し、いつもの明晰さが失われてしまっていたというような要素もなくはないだろう。これはとても残念なことだ。あるいは新潮社の圧力で、或いは本の厚さだけで受賞が決まったのかもしれない。そうだとすればこれだけ恥ずかしいことはない。これからはみんな「金閣寺は天皇」で一生やっていくつもりなのだろうか。それがいつか漱石の「月がきれいですね」みたいになってしまうのかと思えばやりきれない。天皇をで例えるな、という話である。



 しかし本当に大きな枠組みとして『春の雪』を眺めた時、平野啓一郎が天皇問題を取り逃がしてしまっていることは誰の目にも明らかなはずなのだ。そのことは昨日仄めかしたが、気がついていた人はいただろうか?

 清顕は結局天皇のためには死ななかった。肺炎で病死したように見える。このことに対して平野啓一郎は「23 清顕の美と死」において、

 前者については、この最後の場面でも、大正天皇の存在が徹底して不在である点に注意されたい。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 と、指摘している。また天皇および皇室を「到達不可能なもの」と定義している。

 この点は完全な誤りとは言えない、むしろ結果的には正しいのであるが、その表現に問題がある。なんというか、まぐれ当たりになっているのだ。つまりこの表現では本当に天皇が不在であるという認識が確認できない。大正天皇の不在、それは三島の意図したところでもあり、三島の意図と無関係なところでもある。この関係性は三島の意図したものが見えていないと見えてこないものでは必ずしもない。しかし三島由紀夫論を作品論から始め『春の雪』の天皇に関して述べるとしたら、この表現では肝腎なポイントが表現されていないのだ、と結論を先に述べておいてその理由を説明しよう。そんなに長い話にはならない。

 まず私がずっと気になっていたのは天皇の呼び方である。第二章で「明治大帝」は髪結から「天子様」と呼ばれていた。

 清らかな偉大な英雄と神の時代は、明治天皇の崩御と共に滅びました。

(三島由紀夫『春の雪』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 第九章おける飯沼の心の声にはこうある。大正の聖代などという嘘はその心の声からは漏れない。谷崎潤一郎が使えばそれは冷やかしのようなものである。

 飯沼は明らかにこの時代を恨んでいる。飯沼がこの時代の何をどう批判していたのかと言えば「これは今上天皇の軟弱さ」というよりない。飯沼の言い分は明らかに当てこすりである。飯沼がその時代に感じていたものを、過激に反映するのかその息子の勲という理屈になる。そのあたりの話は『奔馬』を巡って別に述べよう。ここでは飯沼による明確な天皇批判があるという点だけ確認しておこう。

 さて、年が改まり大正二年になると第十章で蓼科は、

 その代わり、公家の家では、お上のことについては万事口が固うございまして、大名家のやうに、御家族のあひだであけすけにお上のお噂を申し上げるやうなことは決してございません。さういふわけで、うちのお姫様なども、お上のことを心から大切に思つておいてです。もつとも異人のお上まで大切になさることはございますまいに。

(三島由紀夫『春の雪』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 このように微妙な言い回しをする。公家は、西園寺公望を前提にしての話なので清華家を指す。大名とは誰とは名指しされていないけれども、例えば島津忠義などの殿様のようなもののことであろうか。 

 そしてこの場合「お上」は明らかに殿様から天皇に変化している。最後は異国の王様も「お上」に変化している。

 蓼科は綾倉伯爵を殿様と呼び、清顕を若様と呼ぶ。

 確かに本多も、

 貴様は、権力も金力も歯の立たない不可能をはじめから相手にしたんだ。

(三島由紀夫『春の雪』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 とは言ってみる。しかし御一新を経てきたものにしてみれば、その不可能というのは単なる一つの秩序に過ぎないことが蓼科の言葉からは読み取れる。

大切なのは心ではなく状況だつた。清顕の、疲れた、危険な、血走つた目は、二人のためにするこの世の秩序の崩壊を夢見てゐた。
「大地震が起こればいいのだ。さうすれば僕はあの人を助けに行くだらう。大戦争が起こればいいのだ。さうすれば、……さうだ、それよりも、国の大本が揺らぐやうな出来事が起こればいいのだ」

(三島由紀夫『春の雪』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 この清顕の思いは、大戦争を経てなお「国の大本が揺らぐやうな出来事が起こ」らなかったという現実の歴史が破天荒に見せているだけで、慶応三年にこんなことを思っていた青年の願いは奇蹟的に現実のものとなったていたわけである。その青年の一人が飯沼の父親であり、松枝侯爵の父親でもあったわけだ。彼らの行動により殿様はお上の座から引きずり降ろされた。

 門跡もまた大正天皇を天子様とは呼ばない。「お上」と呼ぶ。

 それが交換可能な一つの秩序の中の権威であることを知っているからだ。新河男爵、綾倉伯爵、松枝侯爵の宮家に対する敬意のなさについては既に述べた。

 聡子の病気について松枝侯爵が報告に来たことを知らされた治典王殿下は、昔宮中で天皇拝謁後の山県元帥が、両手を隠しにぞんざいにっ込んだまま、直立不動で元帥に敬礼した自分に対して答礼しなかったことを思い出す。(四十七章)

 山縣有朋は長州の下級武士の家に生まれた。しかし今は時代が違うのだというこの態度はただ宮家の三男坊だけに対する不敬ではない。

 四十九章で、松枝家に右翼団体の出している新聞が届けられる。そこには飯沼が書いた「松枝侯爵の不忠不孝」という文章が載っていた。その中で治典王殿下は万々一の場合の皇位継承順位に関はり」がある対象と見做されている。

 史実としては大正天皇は明治天皇の唯一成人した皇男子(三男)であり、側室を持たなかった。歴史と小説をごっちゃにしてはいけないが、現実に即した小説と見做せば、治典王殿下、そしてその子は確かに皇位継承順位に関わるのである。しかしこの問題を飯沼が敢えて封建社会の精神である忠孝の欠如として指摘していることが面白い。飯沼でさえ天皇の神聖とは言わないのだ。

 三島由紀夫は五十章で大正天皇に対して、

 先帝よりも御羸弱にお見受けする当今

(三島由紀夫『春の雪』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 と書いてみる。

大正元年

 むしろ私は「天皇皇后両陛下に東宮殿下もご臨席合わせられ」という御歌会の場に於いて、清顕が平然と参加し、最後にとってつけたように

『お上をお裏切り申し上げたのだ。死なねばならぬ』

(三島由紀夫『春の雪』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 と考えてみることに不自然を感じる。

 この時点では清顕は知らないわけだが、大地震や大戦争がなくても、天皇はそもそも絶対の権威ではありえず、摂政がその代理を務めることのできるもの、〈絶対者〉ではありえないことを三島由紀夫は知っており、平野啓一郎は令和の今、天皇の地位が、ほかのスポーツや職業同様、高齢を理由に放棄できるものでもあることを知っている筈なのだ。

 少なくとも『春の雪』には西園寺や飯沼や山県や蓼科などのさまざまな立場からの天皇および皇室というものが描かれていて、本多は北一輝の新しい天皇像まで知っていることを見るべきであろう。西園寺や山県は大正天皇の資質について不安視していた。それは「到達不可能なもの」ではなく、少なくとも清顕にとっては到達すべき目標ですらない。

 この時既に新河男爵夫人の言う通り、新しい思想というものがやってきていた。一方平野啓一郎の天皇はまだ大正の聖代におられるようである。

 平野は「大正天皇の存在が徹底して不在である」とだけ書いているが、それはこの『春の雪』がそもそも三島由紀夫の言うところの天皇が不在だった時期にあてはめられている点を見逃しているからではないだろうか。

 明治天皇の崩御後ただちに元号は大正と改められ実質的に皇太子は天皇となったが即位の礼と大嘗会は大正四年まで行われていないのである。三島の天皇論においては春日宮天皇は天皇ではなく、大嘗会を経ていない大正三年の今上天皇はまだ天照大神と直結していないので、仮の天皇であり、今上天皇ではないことになる。これはあくまでも三島由紀夫の理屈である。

 清顕はそのことにさえ気がついていないが、三島由紀夫論を書くものが気がついていないとしたら、今日はおやつ抜きである。

[附記]

 平野啓一郎は、「19 『春の雪』に於ける天皇と「雅び(優雅)」においてこう述べる。

 三島は、天皇の「非個人的な性格」を重視しつつ、昭和天皇裕仁個人の責任を厳しく問うたが、明治天皇や大正天皇に対しては、歴史的な出来事に注目し、天皇という立場にある人間としてかくあらねばならなかったと批判するようなことが一切なかった。これは『春の雪』でも確認される大きな特徴である。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 飯沼の怒りが見えておらず、蓼科の言うところの公家のルールに気がついていないことが解る。「御羸弱にお見受けする」でも随分だと思う。飯沼に言わせれば清顕が軟弱なのもみんな今上天皇の所為だ、という屁理屈になろう。


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