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比喩と来たか 牧野信一の『闘戦勝仏』をどう読むか⑪

 悟空の頭へ手をあて、その勇を讚へた玄奘の眼には賞讚と感謝の涙が露のやうに宿つてゐた。
「偉い/\。」と叫んで八戒と悟浄は悟空を讚へるの余りに両手に抱き上げた。
「さあ、ゆつくりと休んで呉れ。」
「いやいや、まあ……」と悟空は、何故か(と八戒達は思はずには居られなかつた程)顔を赤らめて恥しさうに笑つてゐるばかりなのであつた。「そんなに讚めて呉れては反つて困るよ。」と云つて悟空は、俺は俺の為のみに快楽のみを求めて、君達よりも余程面白い思ひをして来たのだよ、と云はうとしたが八戒や悟浄にそんな事を云つたつて始まらないと思つたので止めた。
「讚へずには居られない。」と二人は云つた。
「さうか。」稍傲然と答へた悟空は、窓下の花にヒラヒラと踊つてゐる蝶をフッと吹き殺した。

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 物語の構造としては、ここで第一巻の最期の場面に大きな円を描いて回帰し、「蝶」のモティーフの導入など——蝶は、透との最後の面会場面から既に予告されている——、明らかに「邯鄲の夢」を下敷きにして、時の経過とは何であるのか、加齢とは何であるのかという、作者の感慨が全的に表現されている。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

「これが、皇太子殿下の辞世の歌だ」
 と言って色紙を読み上げてくれた。
    春の野の黄いなる花に舞ひ慕ふ
     もんしろ蝶は老いも知らずに

(深沢七郎『風流夢譚』)

 悟空は十分自覚的である。「俺は俺の為のみに快楽のみを求めて、君達よりも余程面白い思ひをして来たのだよ」と、客観的ですらある。そして小気味良い総括でもある。

 しかしいきなりの「蝶」!
 なんという些細な八つ当たり、気まぐれの殺生。ここであの「麒麟山百万の化物は一匹も残らず焼け死んでしまつた」という出来事が、たまたまではないことが、……いや逆に、たまたまであったことが解る。
 悟空はたまたま、大した意味もなく、そんなことができる猿なのだ。

 八戒や悟浄に半年待たされたといういら立ちのようなものは見えない。すべて御伽噺的に処理されている。御伽噺的とは細かいところはまあ大体で済まされるという意味である。例えば如意棒。同じ質量なら伸びた時にはスカスカで、風に吹き飛ばされてしまうだろうし、同じ強度を保つことは難しい。ここで八戒や悟浄に半年待たされたといういら立ちのようなものは見えないのは、八戒や悟浄側は舞台の裏の楽屋でスマホを見たり、スポーツ新聞を読んで休憩していたからで、そこには半年という舞台上の時間は存在しないからだ。八戒や悟浄にカメラがついて密着取材すると色々と面倒なことになるかも知れない。だからここではそういう時間というものが存在しない体で話が進められているのだ。

 この後の一行の空白で玄奘が悟空のむやみな殺生を咎めたとも読めない。
 書いていないからだ。


 王と后とは死んだ如く喜びに疲れて幾日も幾日も口もきけず身動きもせず、玉座に二人抱き合つた儘生人形のやうにかたくなつてゐた。
 玉座を訪れた悟空は、対に並んだ王と后の繍履の下に手をついて、これもかたくなつてゐたが、二人の顔をひと目見上げるや、……感極つてハラハラと涙を流して、再びひれ伏して動かなかつた。
 折から街の彼方では美しい市民達が声をそろへて、朗かな調子を澄んだ空と青い小山と白い川の流れとに和して歌ふ喜びの歌が、春の川を音もなく降る陽炎のやうに、静かに静かに而もうら甘く、悟空の耳にも流れ込んだ。

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 もう皇后と書くのも面倒臭くなったのか、牧野は「王と后」と二回も書いてみる。確かに面倒臭かったのであろう。八戒や悟浄に苦情を言わせるのも面倒。話を続けるのも面倒。もう台詞を言わせるのも面倒なのではあろうが、例の五か月の空白を遊んでくる。

 この人のワーキングメモリーもなかなかだ。

 ここで「の川を音もなく降る陽炎のやうに」とあくまで比喩として使われた季節は、悟空が旅立つ前、やはり「悟空が打ち眺めた王の手のあたりには、密香竜涎の香りが、晩春の紫の霞の如くふわりと包んで」とやはり比喩として使われていて、実際の季節がいつなのかは曖昧なのだ。

 夏冬秋の文字はない。

 ただ春の感じというものを「窓下の花にヒラヒラと踊つてゐる蝶」と書くことでぼんやりと示している。悟空らが朱紫に入った貞観の十三年は『西遊記』ではそもそも太宗皇帝が三蔵法師を西大に送り出した年、月は九月。九月はもう秋である。なんだかややこしいが、牧野が時間で遊んでいることは確かだ。

「闘戦勝仏」とは孫悟空が大釈尊に遵奉した難行苦行と衆生の為に功徳を施した豪気と智勇とを讚へられて賜つたところの有難い戒名なのである。

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 まあ、戒名ではないな。

 西天の如来から賜った位のようなものだ。

 しかしこれでは三蔵法師はおろかお釈迦さまも「俺は俺の為のみに快楽のみを求めて、君達よりも余程面白い思ひをして来たのだよ」という本当のところは見抜けないようなお話になっていて、あれだけの殺生(焼き殺された魔物たちに混じって、中にはいやいやながら付き従っていた人や囚われていた奴隷なんかもいたのではなかろうか?)がむしろ褒められていることになる。そして仏教なんて大したことはないよ、悟りだの仏だのと言っても、猿の考えることなんか何も分かっていないよという大変罰当たりなロジックが出てしまっている。

 そんなものは解るわけがないという自信が溢れているかのようだ。

 この一作で牧野信一の仏教に対する考え方や「意識」の捉え方などを総括してしまうことはできない。然しながら、嚇かしてやるぞという妙な気どりもなく、格好つけもなく、かつて誰もやったことがないような、妙なことをやっていることは間違いない。

 そしてこんな人がかなりぞんざいに扱われていて、あまり真剣に読まれていないことも解った。

 なんとも興味深い作家の、なんとも興味深い処女作であることよ。

 と、私だけが呟いておこう。

[余談]

 生きるって、難しいね。


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