推定とは恐れ入る 芥川龍之介の『誘惑』をどう読むか⑫
昨日はこの『誘惑――或シナリオ――』という作品が無声映画のようで、金釦という不可能なものを描いたことによってむしろ、そういえばここまで赤や青といった明確な色彩のない白黒映画のようであったと気づかされ、そのことでこれまで思い描いていた画から急に色彩は消え去り、かくかくしたコマ落ちの画像となり、役者のメイクは濃く、芝居が大きくなると書いた。
そしてこれが小説だと書いた。
後で画が変わる。
なんでもないことながらそれは最初から明確に意識して色彩を隠し、例外を持ち出すことによって起きたことなのだから、「たまたま」ではありえない。
それにしてもこの『誘惑――或シナリオ――』にはどれだけの新機軸が詰め込まれたことか。
枝
枝
枝
枝
幹
これだけでもすごいのに、突然「印象派」と言ってみることで、そこかしらに現れようとするドガやゴッホにちなみそうな事物を無標性に押し返す断固とした賺し。そうは言っても「印象派」と言ったんだからと食い下がっても、芥川龍之介はあくまでもしらを切り通す気だ。
姿ではなく頭と書いてみる描写。
なんなら男の人形にはおちんちんはついていませんとまで言い張るかもしれない。あの樟の木とこの樟の木さえ確実に結びついているわけではないのだ。何かと何かを結び付け意味に辿り着こうとする脳の誘いを芥川龍之介は毅然として拒絶する。
そしてとてもその時代に考えつくはずのない特殊撮影、編集技術。
健全なマッサージ店の鼠経リンパマッサージのような賺しと仄めかし。「山羊のように髯を伸ばした、目の鋭い紅毛人の船長である。」と書かれていたのは三十三章。それまでこの作品に「髯」の文字はなく、その時「髯」は顋髯とは書かれていない。
この死体が船長であるかどうか、漢字博士でも迷うように芥川は「顋髯」と書いて見せる。この瞬間に「マントル!」と脳が叫ぶ。
第三十五章の「船長のマントルは動いていない」というふりが、たちまち船長を幽霊に変えようとする。しかし散々はぐらかされた通り、あの樟の木とこの樟の木さえ確実に結びついているわけではないのだ。この世に髯の生えた人がたった一人というわけもあるまい。
カメラは下半身を隠し、「さん・せばすちあん」は驚きや恐れを示し、と無声映画時代の大きな芝居をして見せる。メイクは濃い。唇は動いても声は漏れない。
「あれはあなたなのか」
「そうだ」
脳みそがはしなくも漏らした言葉は、急ぎ過ぎていて信用に値しない。十字は八の字に転じたのか、降ろした指が持ち上がらないのか、脳は後者を選択し、描かれてもいない「さん・せばすちあん」の大きな芝居を映し出す。
画面は白黒でアスペクト比、横縦比は1.33対1で、今のスコープサイズに比べると随分横が短い。
その分「さん・せばすちあん」は細く見える。
パチパチパチと音がして。画面に打ち出された文字。
ユダ。
その固有名詞はナポレオンのようにゆるぎないものながら、それでも余りのちぐはぐさに守られて意味は確かな何ものにもサバりつくことができないで脳内をさまよう。
ユダ?
船長がユダ?
幽霊ではなくて?
誰かの手とは誰の手なのだ?
頭が透明な魚デメギニスを思い出したあなたは、「猥褻な形をした手」も思い出す。
しかし「家だの、湖だの、十字架だの、猥褻な形をした手だの、橄欖の枝だの、老人だの、――いろいろのものも映っているらしい。………」と言われてみて「らしい」でどこかに放り投げられる。
らしい。
推定だ。
事実とまでは言えない。
多分そうだがはっきりはしていない。
推定する話者は画を見ていない。
しかしこれは確かに映像詩だ。
こんな小説はこれまで外にあっただろうか。
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