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足の裏には意味がある 芥川龍之介の『誘惑』をどう読むか⑬

 なんやかやといいながら神が人類の中で唯一私にだけ正しく読む能力を与えてしまったことに今は感謝している。

 おそらくまだ「幹」に気がついた地球人は私一人だけだ。「印象派」には気がついた人がいるかもしれないが、「男の人形」のことはまだ誰も知らないのに違いない。このnoteも完全非公開なので、誰も読むことはできまい。

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 前の洞穴の内部の隅。岩の壁によりかかった死骸は徐ろに若くなりはじめ、とうとう赤児に変ってしまう。しかしこの赤児の顋にも顋髯だけはちゃんと残っている。

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 ではおちんちんはどうなんだろうね?

 体が赤児ならおちんちんもちいさくなるのかね?

 それからいくら赤児でも死骸なんだから、私はだんだん若くなるいくつもの連続する死骸を見せられているわけだよね。

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 赤児の死骸の足のうら。どちらの足のうらもまん中に一輪ずつ薔薇の花を描いている。けれどもそれ等は見る見るうちに岩の上へ花びらを落してしまう。

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 やはりそう。

 先に言っちゃったね。しかし気がついていなかった人は「赤児の死骸」で少しはどきりとしたわけだ。そして「薔薇の花」とだけ書いて色を言わない遊びは続いている。
 絵が実体化する特撮の中で散る花びらは岩の暗さの中で白い方が映える。しかし映えたところで足の裏に薔薇が描かれることは意味を持たないし、散る事も意味を持たない。

 しかし足の裏は意味を持ってしまう。

 死骸が若返って足の裏が見えるということは、死骸はズボンをはいていなかったという理屈になる。靴下は脱げたのだとしよう。しかしズボンを履いていれば、いや上着を着ていてさえ赤児の全身は大人の衣装に隠れてしまう。死骸はそもそも全裸だったのだ。

 ならばおちんちんはどうなんだろうね?という疑問はさして的外れなものでもあるまい。死骸は全裸で、それは見えていたのではなかろうか。

 ユダをイスカリオテのユダだと見立ててみれば、

 死骸は首つり、または内臓が全て飛び出したものである。

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 彼等の上半身。「さん・せばすちあん」は愈興奮し、何か又船長に話しかける。船長は何とも返事をしない。が、殆ど厳粛に「さん・せばすちあん」の顔を見つめている。

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 下半身を見切れさせる芥川。「さん・せばすちあん」は一体何に興奮し、下半身はどうなっているのか?

 一体どんな変態が顋髯を生やした赤児の死骸のおちんちんを見て勃起するというのか。船長は「さん・せばすちあん」の下半身を見ない。いや、船長の下半身も怪しいものだ。

 ネクロフィリア。

 いやいや世の中には何とも変わった趣味の持ち主がいたものだ。人形の腰ふりを笑う女、赤児でも死骸に興奮する人。しかし本を読まないで眺めるだけなんて、相当の変態じゃないか。

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 半ば帽子のかげになった、目の鋭い船長の顔。船長は徐ろに舌を出して見せる。舌の上にはスフィンクスが一匹。

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 この「舌の上のスフィンクス」とはフランスの焼き菓子の名前……というわけでもない。「極く小さい軍服姿のナポレオン」とは書かれたが、こちらの「スフィンクス」には小さいとは書かれていない。つまり船長が巨大? ならば同じアングルに収まる「さん・せばすちあん」も同じくらい巨大か、あるいはカメラに対してかなり手前に位置している理屈になる。

 いややはり73.5メートルのスフィンクスを舌の上に乗せるのは無理だ。エジプトの許可も下りないだろう。ここは土産物用の小さなスフィンクスなのだと考えることにしよう。

 勿論そこには何の教訓もない。スフィンクスなら象徴主義のギュスターヴ・モロー?

8

 前の洞穴の内部の隅。岩の壁によりかかった赤児の死骸は次第に又変りはじめ、とうとうちゃんと肩車をした二匹の猿になってしまう。

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 この二匹の猿も全裸で小さなおちんちんを晒しているに違いない。どうしても芥川はおちんちんを晒したいらしい。いや肩車されている方の猿のおちんちんはもう一方の猿の首に押し当てられて隠されていることだろう。

 では船長は? 「さん・せばすちあん」はどうなのか?

 そういえばこれまで誰の猿股も描かれていないことに気がつくのはこうして猿が全裸であることに気づかされた後のことである。

 そういう意味においては「男の人形」なるものも猿股を履いていなかったに違いない。むしろ猿股を履かせた「男の人形」の方が滑稽なのだが、そんな滑稽な物もここでちらりと思い浮かぶ。

 しかしそこは人形に於て最も精巧に作りがたいパーツなので、本来の目的に鑑み、小さく盛り上がるにしくはない。それは滑稽以上にお下品な絵面だが仕方ない。それがオカマの人形でない限り、膨らんで当然なのだ。

 そのことは大した問題にもなるまい。

 なにしろこの世には芥川龍之介作品を読むものは誰もいないのだから。


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