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何処まで知っていたのか? 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む29

 平野啓一郎は「52  三島と「悪」」に於いて、本多の悪の意識を論ってみる。

 本多にとって、その「自意識」は、生涯を通じての「悪」である。何故ならそれは、「決して愛することを知らず、自ら手を下さずに大ぜいの人を殺し、すばらしい悼辞を書くことで他人の死を楽しみ、世界を滅亡へみちびきながら、自分だけは生き延びようとしてきた」からである。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 こう摘まんで置いて平野は不思議がる。

 作品中にこのような場面はどこにも見られないととぼけて見せる。「決して愛することを知らず」「他人の死を楽しみ」はいざ知らず、「自ら手を下さずに大ぜいの人を殺し」「世界を滅亡へみちびきながら、自分だけは生き延びようとしてきた」人物と言えば、統帥権を持つ天皇、その人以外にはあり得ないのではないか。

 無論そういう見立てが『はだしのゲン』的にヒステリックなものであることは否めない。ただ三島由紀夫が読んだ『風流夢譚』では戦争を終わらせた手柄などというものが昭和天皇にはないことが冷静に指摘されていた。

「終戦になって生命が救かったのは、降伏するようにまわりの人だちが騙すようにてめえの息子にそういうことを教えてやったのだぞ。その人だちは誰だか教えてやれか、米内、岡田、鈴木貫太郎ッ」
 と言い終わって、私は昭憲皇太后のアタマをなぐりつけようとした。

(『風流夢譚』/深沢七郎)

 問題は本多と天皇が直感的には決して結びつかないことである。本多はこれまで観察者と見られてきた。昭和天皇は明治三十四年生まれ、明治の末に十八歳である本多より七つばかりは年下であろう。この二人はその他の数千万人の人々と共にたまたま数十年間は日本の歴史を共有してきたと指摘できるかもしれないが、本多は金閣寺と違って内部に空虚な構造を持たない。美しくもない。本多は行為者ではなかったが、昭和天皇は血気盛んな行為者だった。 

 天皇を思い浮かべないことは難しいが、天皇とは繋がらない。

 こういう場合にこれまで平野啓一郎がとってきた態度は、必ずやり過ごすことであったが、さすがの平野も「自ら手を下さずに大ぜいの人を殺し」などという激しい言葉は無視できなかったようだ。平野は三島にとっての悪はホロコーストや原爆ではなく、保田與重郎を批判する際に用いる「認識者」の指嗾という態度であるとする。

 使嗾・指嗾とは指示しそそのかすことである。

 しかしこれではまだまだ本多の悪には結びつかない。

 平野は本多が「この世界を否定することなく生きてきた」と言い換えてみる。しかしそうではない人は死んでいる。戸坂潤も三木清も思想犯として監獄で疥癬に悶え苦しみながら死んだのだ。

 少なくとも平野は「52  三島と「悪」」の中で天皇を持ち出すことはなく、世界を滅亡へみちびきながら、自分だけは生き延びようとしてきたというまでの本多の罪悪感には行き当っていないように見える。

 基本的に、三島は、第二次大戦によって齎され、二十世紀後半の思想に多大な影響を及ぼした人類の巨悪を主題とすることに関心を持たなかった。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 平野はこう書いてみて本多の過剰な自意識を指嗾で言いくるめようとする。

 確かに三島由紀夫はテロはいけないなどと言わなかったように、原爆やホロコーストはいけないと、そこばかりにフォーカスして語っては来なかったように思われる。

 この批判も解らないではないが、当事者である日本人の殆どが原爆の意味というもの理解できず、それが思想的に読み取られてきたのは三島の死以降、例えばフランスから輸入された現代思想の影響下によるものが主流で、三島由紀夫もまだバタイユの『ヒロシマの人々の物語』は読んでいなかったはずである。

 例えば坂口安吾はこのように述べている。

「文芸」九・十月号に志賀直哉は原子爆弾の残虐さに就いて憤りをもらしているが、この人道ぶりも低俗きわまるものである。原子爆弾を一足先に発明した国にこの戦争の軍配が上るであろうことは戦時国民の常識であって、その期待を恃みしていた国民にとって、十万円の研究費すら投じなかったという軍部の低脳ぶりは国民を驚倒せしめたものである。憤るべきはこの軍人の低脳ぶりだ。残虐なのは戦争自体であって、原子爆弾には限らない。戦争と切り離して原子爆弾一つの残虐性を云々うんぬんするのが不思議な話ではないか。志賀直哉の人道だの人間愛というものはこの程度のものであり、貴族院議員が貴族院の議席から日本を眺めているのと全く同じものである。特攻隊員を再教育せよなどという心配も、単に昔ながらの小さな平穏を欲しているからの心情であり、日本がそのあらゆる欠点を暴露した敗戦泥濘のさなかに於て、彼の人生の問題がこんなところに限定されているということが、文学の名に於てあまりにも悲惨である。戦争、そして、敗北。国家の総力を傾け、その総力がすべて崩れてあらゆる物が裸体となった今日の日本に於て、その人の眼が何物を見つめ、狙い、何物を掴みだすか、ということは、興味ある問題だ。その人の内容だけの物しか狙い又掴みだすことができず、平時に瞞着し得た外見も、ここに至ってその真実を暴露せずにはいられない。志賀直哉の眼が特攻隊員の再教育などということに向けられ、ただ一身の安穏を欲するだけの小さな心情を暴露したということは、暴露せられた軍人精神の悲惨なる実体と同じ程度に文学の神様の悲痛極まる正体であった。

(坂口安吾『咢堂小論』)

 この安吾の態度は毅然としたもので、そこには殺されかかったものの本音がある。

 焼夷ダンに追いまくられたのは、夜三度、昼三度。昼のうち二度は焼け残りの隣りの区のバクゲキを見物に行って、第二波にこッちがまきこまれ、目の前たッた四五間のところに五六十本の焼夷ダンが落ちてきて、いきなり路上に五六十本のタケノコが生えて火をふきだしたから、ふりむいて戻ろうと思ったら、どッこい、うしろの道にもいきなり足もとに五六十本のタケノコが生えやがった。仕方がないから火勢の衰えるのを待ってタケノコの間を縫いながら渡っていると、十字路の右と左に、また五六十本のタケノコがいきなり生えた。見まわすと、百米ぐらいまでの彼方此方の屋根にバラバラ、ガラガラとタケノコがふりこめており、たまにはそれを抑えたり投げたりして別世界の人のように格闘している人の姿も見えはしたが、通行人たちはニワカ雨のハレマを見て歩いているという様子でしかなかった。頭の真上に焼夷ダンが落ちて大の字になって威張って死んでる男がいた。通行人の一人が死人の腰にくくりつけた弁当包みを手にのせてみて、
まだ弁当食ってねえや
 ほかの通行人たちの顔を見まわしてニヤリと笑って言やアがった。この時は薄気味わるかったね。オレがまだこの通行人ほど正直でないような気がして、そこまで正直にさせないと気がすまないような戦争という飛んでもないデカダン野郎に重ね重ねのウラミツラミがよみがえったようだった。しかし、そういうことにシゲキされていくらか理性だか正気のようなものの影がさしてハッとすることがあったけれども、すぐ目の前で小さなバクダンの筒に頭を砕かれて大の字にひッくり返って死んだ人間については全然無感動であったと云ってよい。雨に打たれて誰かが死んだ。それがオレでなかっただけの話にすぎないのである。
 

(坂口安吾『もう軍備はいらない』)

 東京大空襲を体験したあるドクターは「あいつらはね、焼夷弾を落とす前に重油を撒いたんですよ」と言っていた。東京大空襲もまた大量虐殺なんですよと言いたげだった。

 今フランス現代思想を受けて振り返ると安吾の言っていることは素朴すぎて深みがなさすぎるように思えなくもないが、かりに三島由紀夫が原爆について何か語っていたとして、この程度以上のことが屁理屈なしに述べられたかどうかは怪しいものだ。

 しかし三島は現に本多をして「世界を滅亡へみちびき」と言わせてみる。これが天皇との一体化でないとしたら、——もちろんそうではありえないのだが——やはり自意識としては過剰であり無理がある。

 しかしこのことはそもそも天皇と一判事、一弁護士如きが同じものを背負えるわけはないという理屈にはなる。ノモンハンに留まらず南京大虐殺やホロコーストの罪悪感までやすやすと引き受けてしまう村上春樹に対して、本多の過剰なサバイバーズギルトは変態性と折り合いもつけずに客観的すぎてしまっているのではなかろうかと思う。本多の罪の意識はかなり大きく見れば尤もなところもあるが、本多の変態はそのまま変態なのである。

 この矛盾。

 本多にとって、その「自意識」は、生涯を通じての「悪」である。何故ならそれは、「決して愛することを知らず、自ら手を下さずに大ぜいの人のセックスを覗き、すばらしい妄想を膨らませることで視姦を楽しみ、世界を猥褻へみちびきながら、自分だけは逮捕されまいとしてきた」からである。

 そういえば本多には子供がいない。それは徹底して観察者であったから、では説明できない。本多も一応参与はしたのである。しかし子供は出来なかった。金持ちにはなった。妄想家になった。変態である。

 本多という男はけして世界を滅亡へみちびくほどの大物ではない。本多は天皇ではない。しかしこれまで三島は本多にかなり肩入れして来た。

 本多とはいったい何者なのか?

 平野はまだこの問いを立てていないように見える。

 本多とは行動しない三島、八百円の本が売れれば八十円入ってくる三島由紀夫自身であることが自明だからであろうか。

 確かに晩年三島由紀夫自身がこれまでの人生は何だったのかと振り返り、何もないと言っていたことは事実。その職業は異なれど、作家としての三島由紀夫の人生は半ば本多のようなものであったのかもしれない。

 ここまで本多は三島の屁理屈の代弁者だった。技術的に言えば本多をして「世界を滅亡へみちびき」と言わせてみるのは、理論的には整理されていないけれども理屈をこねているうちに届くかもしれないし、そこに開きがあったとして後で空いている拡張端子にぴったりのプラグが見つかるようにして収まるかもしれないから放り出してみただけ、とは言えなくもないだろう。

 実際『豊饒の海』では『春の雪』の黒い犬ともぐらの死骸の暗示が、ただ放り出されたまま打ち捨てられていて、暗示としてはうまく回収されていないように思える。

 三島由紀夫の「観念の空中戦」については繰り返し、「足がかりのないところからさらに高く飛翔する」と述べてきた通り、論理の届かないところにもう一つ非論理的なものを重ねてくるので、三島の思考スタイルの中には本質的にそうした無責任なところがあるというところまでは確かなように思われる。

 ではこの「世界を滅亡へみちびき」が完全なあてずっぽうかというとそういうわけではなくて、やはりここでうっすらと意識されているのは昭和天皇のことだろうと思われる。

誰やお前?


He said the Emperor had remarked to him several times that the name given his reign--Showa or Enlightened Peace--now seemed to be a cynical one but that he wished to retain that designation and hoped that he would live long enough to insure that it would indeed be a reign of "Splendid Peace". 

https://zenkyoto68.tripod.com/CourtneyWhitney1.htm

 昭和天皇は、自分の治世につけられた「昭和」あるいは「啓蒙された平和」という名称は、今では皮肉なものに思えるが、自分はその名称を保持したいと願い、それが本当に「華麗なる平和」の治世となるよう十分長生きすることを望んでいる、と何度か彼に言ったという

ちり毛にツーブロック

 これはホイットニー文書と呼ばれる昭和天皇の見解の記録の一部である。三島由紀夫が『英霊の声』においていわゆる天皇の「人間宣言」に噛みついたことは周知のとおりだが、その草案調製の経緯を含めた天皇自身の関与や意思の忖度というものがどの程度のものであったのかという点に関しては様々に意見が分かれるところである。

 しかしこのメモが真実だとしたら、どこかでそんな「世界を滅亡へみちびきながら、自分だけは生き延びようとしてきた」人間というものが存在したように見られても仕方がなかろう。これこそが本当のバカ殿だ。

 全文を読んでみるとまさに他人事で、責任感というものがまるで感じられない。深沢七郎はこのメモそのものは読んでいなかったかもしれないが、どうも違うぞというところまでは嗅ぎ取っていた。

 さて私は『仮面の告白』の時点で問題意識があれば『英霊の声』が書けたはずだと書いた。『英霊の声』はあまりにも遅すぎるからだ。しかしこういうことはないだろうか。『風流夢譚』で「天皇」という面白い研究テーマに気づかされた後、様々な角度から調べ上げてきた結果、当初は「成功」と見做していた戦後日本の繁栄と同様、人間天皇の欺瞞というものが次第に三島には見えてきた……。

 実際天皇に感心のない殆どの人がホイットニー文書など知らず「十分長生きすることを望んでいる」などという彼の発言を知らなかったはずである。立ち食いソバやで隣の人が素数ゼミの話をしていても素数ゼミに感心がなければその話は耳に入ってこないものである。

 三島のあまりにも遅い『英霊の声』のきっかけは「人間宣言」だけではありえない。「世界を滅亡へみちびきながら、自分だけは生き延びようとしてきた」確証がなければ、そこには辿り着かないだろう。三島は恐らくホイットニー文書に限らず、何かによりある男が「世界を滅亡へみちびきながら、自分だけは生き延びようとしてきた」確証を得たのだ。

 そうすると彼に対して当てこすりをしたくなるのも当然のことではあるまいか。

 決して天皇ではありえない本多の自意識にこんな罪の意識があるとしたら?

 三島の理屈はここまでしか言っていない。

 言ってはいないが言ったも同然だろう。

 平野啓一郎は三島の原爆やホロコーストに関する無関心に不満げだが、坂口安吾でも志賀直哉でもこのメモを見たら「ん?」と思ったはずである。むしろ問題はそこにあるのではなくバカ殿のバカ殿性にあると三島は考えたのではないか。

爆撃に たふれゆく民の 上をおもひ
 いくさとめけり  身はいかならむとも

 昭和天皇の御製である。これほど現実と乖離した言葉というものを私はほかに知らない。

 平野啓一郎は三島由紀夫がこの御製とホイットニー文章をいずれも知らなかったと考えているのだろうか。少なくとも三島は『風流夢譚』を読み、「いくさとめけり」は嘘だなあと気が付いたはずだ。三島はそこから調べる人だ。「世界を滅亡へみちびきながら、自分だけは生き延びようとしてきた」とあてずっぽうに書いたわけではない。

 この点を加味して書き直してくれないかなあ。私が生きている間に。


[余談]

ブルジョア文学ちゃあ、ブルジョア文学だね。


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