十五秒足りない 牧野信一の『凸面鏡』をどう読むか①
この作は大正八年四月のものとされているので、『ランプの明滅』よりも先に書かれた可能性が高い。
そしていきなりのホモフォビアのような、ホモのような話である。
しかし「僕が若し女ならば」と書いてあるので、ホモではないな。
気持ちの悪いと言いながら笑っているからホモフォビアでもない。
親友の「生命を棄てゝも君に恋をして見せるよ」という言葉は『春の雪』の最後で本多の手を握る松枝清顕よりもからっとしたもので、よく考えてみると何とか清顕の親友としてとどまろうと微妙に距離間を調整していた本多が自分の意志などないかのように清顕に寄り添うさまは、そうは言われはしないもののかなり同性愛的な景色で、腐女子から舌なめずりされそうなものである。
そもそもマイナーな作家のひとりである牧野のこの作品は、そうした色眼鏡にも、いやどんな虫眼鏡にもさらされたことはないのだろう。
牧野はここで「真実性」と書いていた。照子の御褒美は真実性を持っていなかった。先にこちらを読んでおけばよかった。しかしもうやり直しは出来ない。それが人生というものだ。
え?
道子?
それ『爪』では妹だつたじゃないか。
確かに『爪』では道子に惚れているというのが落ちだったけれども、よせツ、戯談じやねえ、気味の悪るい。それじゃあ、近親愛じゃないか。また繰り返すのか?
そう思わせるように書いている。
それにしてもここまで牧野は、恋柱甘露寺蜜璃かというほどに恋に執着しているな。これまで『闘戦勝仏』『爪』『ランプの明滅』と全部軟弱な恋の話だ。恋愛体質なのか、ほかに書くことがないのか、天皇に関心がないのか、女好きなのか。しかも悟空をふりちんで転げまわさせたほかは不思議と肉の匂いがしない。ここでも恋とは言いながら「一分間の中で、恋をして、失恋をして」とあり「恋なるものゝ形式が余りにはかない」という以上に中身がない。
突然囚われる恋というものはあるとしてそれがじわじわと全身を締め付けるようになるまでには数日の眠れない夜も必要になろう。一分ではガストのパスタも茹で上がらない。痛ましい失恋者となつて自殺することが出来ないのはいいこととして、例によって恋の最も甘美な部分を味わうためには一分ではあまりに短い。
散歩していたのか。
そして友、
あっさりしているな。「生命を棄てゝも君に恋をして見せるよ」と言いながら粘着性がない。
なんでや。
散歩していなかったのか。
解りにくいぞ。
道子が嫁に行つてしまつてから一年目の春のある夜、下宿を訪ねてきた友に、「一処に出掛けやう、ちよいと顔を剃る間待つてゐて呉れ」と言って待たせて顔を剃っている間の会話だったのか。
つまり、腹を抱えて笑っている最中「彼」の左右どちらかの手には剃刀が握られていて、顔には石鹸の泡がついていて、「彼」は鏡越しに友と会話していたとそういうわけなのか。それがみんな後で解るように書いたというこことなのか。
それにしても夜顔を剃るとはどういうことなのだ。その目的は何なのだ。
剃るのは顔だけなのか。
服は着ているのか。
それはまだ誰にも解らない。そこは書かれていないことだからだ。ただ解るのは、この頃皇太子は大正天皇の摂政をしていて、髭を伸ばしていたということだけだ。「俺はもう絶対に遊びや酒は止めやうと思つてゐるのだから」という覚悟は既に揺らいでいる。だが彼が酒を飲むのかどうかはまだ誰にも解らない。何故ならここまでしか読んでいないからだ。
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