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ニーチェだって言っている 本当の文学の話をしようじゃないか⑱

 本當の文學者は他人の熱情や經驗を言葉で表はす。彼は藝術家である。それで自分が直接感じた僅かのものから多くのものを推量することが出來る。藝術家は決して激しい熱情の人ではない。

人間的余りに人間的 : 自由精神のための書 上巻
ニーチェ 著||戸田三郎 訳岩波書店 1941年

 その本のタイトルからしてこれを芥川が読んでいないとはなかなか考えづらい文章である。そしてその指摘しているところは、芥川自身の文学作品に実に良くあてはまる。それはとても帰納法とか演繹的推理というような表現に収まるものではない。つまりほぼ頼りになる事実の見当たらないところから新しいものを取り出しているように見える場合があるのである。

 例えば寝落ちする語り手などの新機軸もみごとではあるが、

 やはりすごいと思うのはよく調べないと出てこないものをよく調べていることだ。

 この点「白地鳥」に関してはさすが菊池寛も立派だ。それにしても唖然とするのは、尾崎紅葉、正岡子規、芥川龍之介、と皆三十代で死んでしまっていることである。だからこそ天才は早熟の形で現れざるを得なかった。人生経験など僅かながら、この世の全てを見透かしたように語らねばならなかった。そこにおためごかしのはったりが混ざれば偽物である。

 僕はビクトリア朝の文学は一通りやりまして江藤淳からも誘われて……と自慢が多い人には注意した方がいい。

 ところでそれはあからさまな背伸びである筈の『鼻』に「蒼さ」というものがほとんど見られないのはどうした事だろう。そこには「蒼さ」の代わりに功成り名を遂げた坊主のくたびれた時間がある。驚くべきは芥川が、衒いもなくそれをやり遂げたことである。それは殆ど「他人の熱情や經驗を言葉で表はす」ことである筈だ。

 また私は『芋粥』においても芥川が『今昔物語集』の映像化ともいうべき作業を行っていることを確認してきた。

 すでに述べたようにそんなに簡単に情報を補えるわけもないという理由に於て、小説を絵にすることは難しい。しかしニーチェが言うように「自分が直接感じた僅かのものから多くのものを推量することが出來る」のであれば、映像化が可能だ。

 そしてこれは少し理屈を超えたことながら、現に芥川は「映像化」などというレベルの話ではなく、多彩なカメラワークやアニメーションのような演出、編集技術を駆使してしまっていることから、ニーチェが言う以上の情報処理能力を持ち、その意味においてはおそるべき「本物性」を示していたと言ってよい。

 実際透過、透視、回り込み、見切れ抔、現在の映像作品を前提にしてこそ理解可能な描写を芥川だけがやすやすとやってきたように思えることは実に不思議なことである。

 おそらく夏目漱石が『草枕』で縦回転の描写を行ったことを当時の読者は理解できなかったはずだ。それは例えば「ウイングマン」や「ミスター味っ子」などの映像作品に触れてこそ理解可能なものである。

 実はほとんどの描写は説明になっている。書き手自身が画を作れていない。「自分が直接感じた僅かのものから多くのものを推量することが出來る」のが本物の条件だとすれば、偽物は推量を読者に委ねてしまう。

 そこなのではなかろうか。

 例えば『誘惑』はそう饒舌ではない。しかし画がある。

 では『枯木灘』はどうか? という話ではない。『誘惑』には画があり、『絶歌』にも画があるということだ。

 酒鬼薔薇君は、映画を撮るように本を読んでいたという。

 そこなのではないかと思う。

 そこが理解できるかどうかだ。

[余談]

 アンリミテッドで二ページしか読まない人は脳の言語機能に何らかの問題があるのではなかろうかと真剣に疑う。短い動画の垂れ流しに慣れて、言葉を読み取る力が急速に衰えているのではなかろうか。
 この現象は他に説明できそうには思えない。アンリミテッドだから金の問題でもないわけだ。
 しかしそれで日常生活は無事に過ごせているものなのだろうか。
 どうでもいいことながら少し心配になる。

 まあある意味こういうことの一部なんだけど。

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