定に入る御運も今や冬木立 夏目漱石の俳句をどう読むか86
土堤一里常盤木もなしに冬木立
子規に、
汽車道の一すじ長し冬木立
という句がある。これに対して、漱石は一里歩いてみる。冬枯れするから冬木立であり常盤木でないのは当たり前なのだが、これはまさに「土手を一里歩いてみた」という寄る辺ない姿が詠まれた句と見做していいだろう。書見などほかにすることがないわけではなかろうに、そうでもしないといられなようなものがあつたのだろうか。
しかしふと思うのは、
土堤一里柳もなしに冬木立
と読み換えてみた時にふと気が付くこと、
この常盤木とは
土堤一里桜木ばかりの冬木立
なのではないかということ。丁度まさに今は葉桜となった桜の木は真冬にはもう何の木だったのか忘れられてしまうくらい目立たない地味な冬木立である。
もし桜の冬木立を「常盤木もなしに」と詠んだのだとしたら、水曜日の次の木曜日を唯生きる今日の今まさに生きてあることの意味が問われてもいようか。
というほどのことでもないね。
ただ土堤というところからしてやはり桜の冬木立の感じというものは確かにあるし、冬の桜をこういうふうにこっそりと詠めたらなかなかのものだなと勝手に感心してしまう句である。仮に明日が金曜日でなくとも今日が木曜日でありさえすればいいと思うのでなければ、土曜日は決してやってこない。そんな感じもする句だ。
定に入る僧まだ死なず冬の月
解説に「定に入るは禅定に入って、座禅三昧になること」とある。
うーん。
一般的には精神が集中して何事にも惑わされないこと、と解され、専門的には三昧、サマーディに入る事であり、これは禅には限らない。
しかしここでは「僧まだ死なず」とあるので、即身成仏の土中入定のイメージであろう。
これは最近では村上春樹さんの『騎士団長殺し』なんかにでてくるが、五穀を断って穴の中に入ったお坊さんが「まだ生きていますよ」と鈴をちりんちりん鳴らすというわけで、
地面より鈴ちりんちりん冬の月
となぜか上を見上げてしまっている句だ。この地面の下から鈴の音が聞こえてきて月を見上げるというのが俳句というよりは和歌の、雅というよりはことのはのすさまじきものを表しているようで、どうもハッとさせられる句だ。
この辺りも岩波書店さん、もう少し丁寧に調べて、解りやすい解説をお願いしますよ。
座禅する坊さん死なず冬の月
だと全然意味が変わってしまう。これは知識とかセンスの問題ではそもそもなくて、責任感の問題だと思うんですよね。出版にかかわる人たちの、存在意義と言うか、そういうものがこんなところで問われているんじゃないかな。
要するに夏目漱石という一人の作家に、こんな凄まじいような句が有ったんだと、今やっと気がついた人もいるでしょ。
いない?
知ってた?
ああ、そうですか。そりゃまたすんずれいすました。
幼帝の御運も今や冬の月
この句に解説が「季=冬の月」としか書かないのはさすがに欺瞞だと思うよ。岩波書店は宮内庁の下部機関なのかね?
幼帝=明治天皇
薩長に担がれて即位した幼帝も、そろそろ三国干渉あたりから怪しくなって、いよいよ来年あたりピンチになるんじゃないの?
というような意味にまずは解せる。
その上で幼帝が明治天皇ではなく、清国の幼帝
の可能性を検討する。
そういうことじゃないかな。このあたりの歴史はもうかなり分からなくなっているので細かい解説が望ましい。
で、清国の幼帝だとそもそも運はなかったので「今や冬の月」「今や冬の尽き」というかんじはなくて、どうかなとも思うけれど。
どうなんだろうね。
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