フェミニンの春雨漏れる地方色 芥川龍之介の俳句をどう読むか51
春雨の中や雪おく甲斐の山
おらが家の花も咲いたり番茶かな
続いてこの句が添えられている。甲斐の国とは山梨。芥川と蛇笏の交際は文通に留まり、芥川が甲斐の山に蛇笏を訪ねた記録はない。
この句には「我鬼句抄」に別バージョンがあり、
春雨の中やいずこの雪の中
おらが家の花もさいたる番茶かな ウマイウマイ
とある。
つまりこれも史実のあるなし、写実云々ではない句ということになる。
言ってみればこれは、相聞歌であり、「あなたの住むという甲斐の山では春雨の中でさえ雪が残っているのでしょうね、お体をお大事に」という句として読めるということになる。そして「私のうちではもう花が咲きましたよ、質素に番茶など飲んで過ごしていますけど」と、なかなか女らしい艶っぽい句に読める。
芥川にはどうも両方いけるようなところがあり、その感覚が生なましくもなく下品にもならず、女性らしさがそれとなく現れているところであろう。なかなか今流行りのジェンダーレスのような句になっている。
こうして明治の春雨の句を眺めてみる中では、この句が際立つ。
相傘の背髙き君や春の雨
これは、子規の
春雨や傘高低に渡し舟
……が遠景の眺めであるのに対して、隣を仰ぎ見るような近景の艶っばさ、読み手の立ち位置と構図が十七文字に現れたいい句だ。これは完全にフェミニンな句になっている。
あとは鳴雪の、
春雨や葎(むぐら)の宿の白拍子
……がいかにも雅で良い。この白拍子というのがやはりジェンダーレスといえばジェンダーレス、また倒錯的と言えば倒錯的な世界なのだ。荒れはてた貧しい家の白拍子とは、それこそ夢かうつつかとこそ思ひはべらんということで雅である。
面白いのは、
春雨や歌は花やか句はかろく
これは川柳のように機知に走っているがなんとなく解りみが深くて、
梓弓おしてはるさめけふふりぬあすさへふらはわかなつみてむ
わかせこか衣はるさめふることにのへのみとりそいろまさりける 貫之
春雨のふるは涙かさくら花ちるををしまぬ人しなけれは
かきくらしことはふらなむ春雨にぬれきぬきせて君をととめむ
ねになきてひちにしかとも春さめにぬれにし袖ととははこたへむ 大江千里
……調べようかと思ったが1024首もある。
それにしても芭蕉にしても、
春雨や蜂の巢傳ふ屋根の洩
春雨や尙しをれたる破れ座具
春雨の木下に傳ふしづく哉
笠寺や洩らぬ窟も春の雨
春雨や簑ふきかへす川柳
春雨や蓬をのばす草の道
不性さやかき起されし春の雨
それから、
蕪村にしても、
あれ、漏れている。
蓴菜(ぬなは)生ふ池の水かさや春の雨
※「蓴菜」……じゅんさい。
春雨だけに。
それで、小林一茶にしても芥川の詠んだような春雨と雪の取り合わせどころか、春雨が降っているけれども寒いという「地方色」はとらえていないのである。こんなものは誰も思いつかなかったことなのではあるまいか。
調べてみよう。
春雨やはや灯のとぼる亦打山
春雨や火もおもしろきなべの尻
春雨やけぶりの脇ハ妹の門
春雨や江戸氣はなれし寛永寺
小田の鶴叉おりよかし春の雨
黒門の半分見へて春の雨
松の木も小ばやく暮て春の雨
春雨や蛤殻の朝の月
春雨や家鴨よちよち門歩き
春雨や千代の古道菜漬売
春雨も横にもて来る浦邊哉
春雨や窓も一人に一ツづゝ
春雨やかまくら雀何となく
春雨や艸菌(コバ)けぶる竹そよぐ
春雨やせゝり過ぎたる前の川
春雨や叉一日は松ハ月
餅欠ハ石となりけり春の雨
わら苞やとうふも見へて春雨
問の木や念被観音の春の雨
春雨ハ嬉しきものか種瓢
山里は常正月や春の雨
いや、あつた。
山里は常正月や春の雨
この句の趣が、芥川の
春雨の中や雪おく甲斐の山
この句の趣と似て蝶ではあるまいか。流石に一茶は雪までは詠まないが、正月のように寒いということなのだろう。そういうところで見ても芥川の大胆な季語殺しというやり方は際立っているように思える。
まあこの「際立っている」というのは「ひねくれている」というのとほぼ同じ意味である。
春雨の中や雪おく甲斐の山
この句は写実ではないので、春の季題はいくらでも置き換えられる。しかし「雨」と「雪」を取り合わせようとは誰も思いつかなかったことだろう。
白飯のおかずはおにぎりばかりなり
みたいな話だからだ。
山里は小梅を濡らす桜雨
みたいな話だからだ。
星月夜つるべおとしの朝づくひ
みたいな話だからだ。
大丈夫てこなののしるささめごと
みたいな話だからだ。
変なの。
【余談】
芥川が東北北海道を旅するのは晩年。しかも五月。本当の寒さは知らなかっただろう。
村上春樹がずっと三十六七歳の男に拘るのは、『津軽』の影響なんじゃないの? 本当は?
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