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ナンセンス作家 牧野信一の『あやふやなこと』を読む

 意外に思われるかもしれないが、私はいわゆる狂人ではない。ただし兄弟はそうではない。だから私にもなにかそういう遺伝的なものがあるのかもしれないと疑ってみたが、やはりそういうものは見つからない。私はよく言えばトヨタカローラのような平凡な人間で、何か特異的な資質もなく、並外れた何かができるわけでもなくナンセンスな人間である。

 ナンセンス。

 芥川の『誘惑』を読みながら、そして平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読みながら、夏目漱石の俳句を読みながら、どうしてもそのことに触れたくなった。

 ナンセンス。

 おそらく人の生き死には無意味で、大抵の人生は意味のないものだ。パチンコや韓国ドラマだけを生きがいにしている老人の生は他人から見れば意味がないというのではない。偶数の素数の発見のために日々計算を繰り返している数学者の人生も、大飯ぐらいに挑み続ける人の人生も等しく無意味なのだ。

記者。お忙しいところへ、甚だ恐縮ですけれど、「私が処女作を発表するまで」と云ふやうなことに就いて、何かお話して下さいませんか。
牧野。処女作は、学生時分――早稲田に居る間――に、二つ書いた。どつちが先だか忘れて了つたが、「爪」と云ふのと、「闘戦勝仏」と云ふのとである。「爪」を書いたのは慥か冬だつた。そして「闘戦勝仏」の方は夏だつた。兎も角、どつちが先だか判然しないが、非常な怠け者で、この二つしか書かなかつた。

(牧野信一『あやふやなこと』)

 牧野信一は夏目漱石や芥川龍之介ほど有名ではない。ただし一部では大変人気があり、それなりに評価のされている作家でもある。
 私はこの牧野信一と中島敦のナンセンスは面白いと思っている。
 といっても大方の人はぴんと来ないかもしれないので一つ嚇かすようなことを書いてしまうと『山月記』のようなナンセンス小説は面白いと思っているという意味だ。
 中島敦の『山月記』は教科書の定番で糞真面目に教訓が拾われているけれどもあれは「若くして名を虎榜に連ねた李徴が虎になる」という話で「若くして名を虎榜に連ねた李徴が大虎になる」とまで読んだ時には明らかなナンセンス小説なのである。そしてナンセンスという言葉を与えた時にこそあれやこれやが腑に落ちる仕掛けになっている。

 しかしそういう読み方が全然できていないのが現状である。

 牧野信一と中島敦がナンセンス作家であるという見立ては私の発明ではない。ナンセンス小説集のアンソロジーに二人の作品が採られているケースが既にある。しかし他人の見立てはどうでもいい。今回はこの牧野信一の出発点を確認するために、『あやふやなこと』を読むことにしたい。

 ここで述べられている通りであれば牧野信一の処女作は『爪』かまたは『闘戦勝仏』ということになる。それぞれ谷崎潤一郎の『悪魔』、『麒麟』の影響がみられるということになっている。

 この点はいずれ精査することにしよう。

 記者。甚だ失礼なお訊ねになりますが、さう云ふ「爪」とか、「闘戦勝仏」とか云ふものをお書きになる前に、文学はどう云ふ傾向を辿らなければいけないとか、これまでの文学はどう云ふ傾向を辿つて来てゐたとか、これからはどう云ふ風に進んで行かなければならないと云ふやうなことを研究しておゐででしたか。それともまた……。
 牧野。いや、そんなことは、僕はさつぱりしなかつた。
 記者。さう云ふことは、やはり、書きながら、必要に応じて研究して行つた方がいいでせうかね。
 牧野。僕はどうも、さう云ふ研究心が、少しも無いので……。
 記者。では、自分だけの道についてもお考へになつた事は御座いませんか。
 牧野。そんなことも、さつぱり無かつたですな。
 記者。処女作を書く以前には、主にどんな人の作品をお読みでした。
 牧野。それもまた、殆んど誰のものも読まなかつたですな、その時分。
 記者。殆んどの程度で、いくらかは読んだでせう。
 牧野。いや。全然何も読まなかつたです。だから、少しも文壇のことは知らなかつたんです。
 記者。それはまた……他人の作品なぞには無関心で、御自分だけの世界を拓いて行かうとでも思つてゐらつして、文壇なぞは、全然問題にして居なかつた訳なんですか。
 牧野。僕は、文壇を問題にしない程偉くはなかつたです。知らなかつたゞけなんです。
 記者。それで、文学の方のお友達はあつたんですか。
 牧野。文学の方の友達も、全然無い位で、同人とも、あまり親しい友達にはならなかつた。――同人が、別に嫌ひな訳ではなかつたが、皆んな、学生時分の同級生だけだつたから……。

(牧野信一『あやふやなこと』)

 牧野信一は呆れるくらい、いや笑ってしまうくらい「何もない」と言ってのける。これが三島由紀夫なら呆れるくらい、いや笑ってしまうくらいぺらぺらとまくし立てる所であろうが、牧野は平然と、いや困っているかのように「何もない」と語って見せる。
 牧野信一は島崎藤村の引きで世に出た作家である。おべっかで島崎藤村の作品名でも出せばいいのに出さない。これはもしや島崎藤村は読んでいなかったなと私は疑う。

 記者。それで、処女作を、一般的に発表したのは、「新小説」の方の「凸面鏡」なんですね。
 牧野。さうです。
 記者。その外に、何か、処女作を発表するまでのお話はないですか。
 牧野。強ひて言へば、詩人になり度いと思つて居た。そして、変な詩を、いくらか書いてゐた。それは、どこへも発表はしなかつたけれど。
 記者。そのために、小説なぞはあまり読まなかつた訳ですか。
 牧野。いや、さうぢやなくて、落着が無かつたです。その頃の僕は、本統にふわ/\してゐる青年で……。
 記者。ぢや、あんまり、所謂、文学青年らしくは無かつた訳ですね。
 牧野。僕が文学青年らしくなつたのは、近頃になつてからのことですよ。極く最近になつて、漸く……。

(牧野信一『あやふやなこと』)

 牧野信一は詩を書いていた。そして落ち着きがなかった。この『あやふやなこと』は殆どこれだけの話ながら、牧野信一のナンセンスさが見えてくるようなインタビューになっている。
 三島由紀夫なら何もないことを隠すために話を盛るところ、何もないと言ってしまう。このサービス精神のなさ。

 牧野信一のナンセンス、それが実際の作品にどのような形で展開されるのか。それはまだ誰も知らない。何故ならまだ読んでいないからだ。


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