すべりよさに小猫も無事に紙衾 夏目漱石の俳句をどう読むか85
愚陀仏は主人の名なり冬籠
漱石の顔は糸瓜先生と呼ばれるほど細長くはない。
むしろ芥川が糸瓜先生だ。この頃のあだ名はラッキョウ。
漱石がどこから愚陀仏という号をひねり出したのかはわからないが、阿弥陀仏から阿弥を取り外して愚をつけたことには間違いはなかろう。何にしても仏だから不遜なことだ。
この家の主人の名は愚陀仏というのだよというだけの句だけれども、この「冬籠」の怠惰な感じと「愚陀仏」という号のとぼけた感じが妙にあっている。実際漱石にしてみてもまだ「明日から本気出す」状態なので、こんな句が詠まれたのであろう。
情けにはごと味噌贈れ冬籠
解説に「ごと味噌」は五斗味噌、ぬかみそとある。いや、大豆・糠(ぬか)・米麹・酒粕・塩をそれぞれ一斗ずつ混ぜあわせて、熟成させた味噌で「なめみそ」である。
田楽か湯豆腐にでもつけて食べるのだろうか。
同情するなら味噌をくれ、とは何か世知辛いようでもあるが、こうしたやり取りも子規との間柄でこそ成り立つものであるのだろう。
それにしても岩波書店さん、大丈夫?
冬籠り小猫も無事で罷りある
おや、この頃漱石は既に猫を飼っていたのかと思いきや、解説に原句は「冬籠り今年も無事で罷りある」であり、子規の添削句とある。
随分な添削があったものだ。
確かにぱっと目に留まる出来の良い句になっているが、これは子規先生が上手過ぎてなんだか漱石が可哀そうな感じがする。竹刀じゃなくて木刀で稽古をしているような感じだ。
句の意味としては冬籠りして小猫も無事でございますよ、「罷りある」は丁寧語なので、どうしてもジェンダーに対する偏見で「女性からの手紙」のように感じられてしまう。
つまり母猫からの手紙。
猫の擬人化の句として眺めると、確かに三つ指ついているかわいらしい画が浮かぶ。やはり子規は上手すぎて洒落にならない。
すべりよさに頭出るなり紙衾
これも子規の添削句で、原句は「すべりよき頭の出たり紙衾」というものらしい。これも禿げ頭に関する偏見から、「すべりよき頭」つまり禿げ頭を揶揄う句のように思えるところ、子規の添削で紙衾の方が滑り良くなっている感じに置き換わっている。
さすがは禿げ頭の子規らしい添削だ。
ところで子規のこの横向きの写真は、実は子規が「眼が離れていること」にコンプレックスがあったことから工夫されたものではないかと私は勝手に疑っている。
どう見ても離れすぎだ。
正面からの写真クイズでは、カズレーザーくらいしか子規を当てられないのではなかろうか。
どうだろう?
両肩を襦袢につゝむ紙衾
この句も「襦袢」に関するジェンダーの偏見から艶っぽい、または変態的句のように感じるものの、そもそも男用の襦袢というものもあり、これは先ほどの、
すべりよさに頭出るなり紙衾
とのつながりで、肩が出て寒いので襦袢に包んだよというただ滑稽を狙った句ではあろう。
これは恐らく風流めかして紙衾を使ってみたらややこしいことになってしまったよという自己戯画化で、三島由紀夫が最も嫌うやり口である。まあ俳句というのはこういう怪しからん遊びの要素も持っていて、自由なものである。
合の宿御白い臭き紙衾
と思えば少々色っぽい句も出てくる。
元々合の宿とは宿泊が禁止された宿場の間の休憩用の施設で非公式なもの。そこに白粉をつけた女が泊まるとなるとよほど非公式なことが行われていたに違いない。(オセロなど。)
しかしそもそも宿場制度は江戸時代のもの。これは江戸時代の名残のある合の宿に泊まった話として見るか、江戸時代の仮想と見るかで解釈が変わってくる。内藤新宿や板橋宿は飯盛旅籠の役目が終わると遊郭へと変化した。合の宿の意味合いも時代とともに変化したことが想像に難くない。
田山花袋の『蒲団』が明治四十年。明治二十八年、金之助青年は白粉の匂いを嗅いでも臭いやと強がるが、自然主義的に見ればその実起立、礼、着席してはいないだろうか。
とは言えそんな句は我鬼先生くらいにならないと詠めないであろうが。
水仙に緞子は晴れの衾哉
とまた随分捻ってくる。安物の紙衾に対して緞子は高級絹織物である。
これは晴れ晴れしい水仙柄の高級絹織物の寝具がでてきたということか。ならばもう下賤のものが泊まる合の宿でもなかろうし、やはり何だか艶っぽい感じがしてくる。「晴れの衾」というのがやはり起立、礼、着席の感じを伴ってくる。悶々とした二十八歳の青年が「晴れの衾」とは詠めないのではなかろうか。
しかしこれはどこか子規を揶揄うような句とも思える。いつか書いた通り、子規は結核の為そうやすやすと女性と接することは控えていたことであろうし、そうとは言えやはり二十八歳の青年ではあったわけなので、なかなか大変だったとは思う。そういう意味では金之助は悪いなあといえなくもない句である。
だからこんな悪い顔か。
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