見出し画像

醜い妖魔って…… 牧野信一の『闘戦勝仏』をどう読むか①

 たまたまながら中島敦にも『西遊記』にちなんだ『悟浄出世』『悟浄歎異
―沙門悟浄の手記―』などの作品がある。

 その他孫悟空がたとえ話に出てくる小説はいくつもあるが、『西遊記』の現場に臨場して小説が書かれる例として牧野信一、中島敦の二例が極めて特異に近似して見える。

 玄奘三蔵法師が或日、孫悟空に向つて
「汝の勇と智は天上天下に許されてゐる、天の魔も地の鬼も、汝の黒一毛にも及ばない。かゝる大智大勇と非凡な妖術とを有しながら、何故天下を領せんとせず、仏門に帰つて、それも余が如き力量もなく妖術も弁へぬ小法師に従うてゐるのか、その理由がきゝ度いのだ。」と問うた。すると悟空は立処に、
「勇や智は如何程あらうとも、それはこの身が存命の間だけに限られたもので御座いませう。悟空の身が滅びた時には、天地を破る此如意棒も棄てられた縫針にならねばなりません――。
 のみならず悟空の智はもとより猿の智で御座います。」と悲しさうに答へた。

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 このように「玄奘三蔵法師が或日、孫悟空に向つて」と書かれてしまうと、昭和十六年に中島敦が『悟浄出世』を、

寒蝉敗柳に鳴き大火西に向かいて流るる秋のはじめになりければ心細くも三蔵は二人の弟子にいざなわれ嶮難を凌ぎ道を急ぎたもうに、たちまち前面に一条の大河あり。

(中島敦『悟浄出世』)

 と書き始めた時には、少しは牧野信一に対する意識があったかもと思ってはみる。しかし中島敦には漱石や芥川などは読んでいたようではあるのだが、牧野信一とのつながりは見えてこない。言ってみれは牧野信一はそういう存在でもあるのだ。つまり誰もが必ず読む作家というわけではない。

 しかしたまたまながら三島由紀夫が牧野信一と中島敦、そして梶井基次郎に対して「夜空に尾を引いて没した星のやうに、純粋な、コンパクトな、硬い、個性的独創的な、それ自体十分一ヶの小宇宙を成し得る作品群を残したことで、いつまでも人々の記憶に、鮮烈な残像を留めている」作家と評価していることもまた事実なのである。おそらく三島由紀夫にこのように規定されたことによってそれ以降牧野信一の評価はこの三島の基準というものを一応の目安として読まれることになろう。中島敦にしてもある意味では死後再評価されたと言えるわけだし、作家というものは何時でもしかるべき読み手に発見される前は「その他大勢」でありうる。

 それにしても牧野信一ですら今更誰でもが知っている『西遊記』をいじくってどうしようというのかと改めて考えてみる。三蔵法師は孫悟空に「なんで天下とらへんねん」と質問した。孫悟空の答えは殊勝なもので「死んだら何にもなりませんもん」というものだ。

「ならば、汝は天地に説いて万世に遺さうと望むのか。」
「どういたしまして。
 私は卑しい猿で御座います。決して説く力は持ちません。」
「説く力量の無いことを自分でよく承知してゐるのか。」
「はい、よく承知いたして居ります。」
「ハッ……ッ。」玄奘は突如、呵々と打ち笑つた。
「祖師様!」と、こゝで悟空は、今迄の調子は諄々としてたゞ己が持つてゐる「あきらめ」を苦もなく答へてゐるのであつたが、悲痛な声に一変して、(こんなくだらない事は他人に取つては、まるで取るに足りない愚なことで、自分もそれはよく知つてゐるのだから、と思ふ度毎に同時に打ち消してはゐたのだつたが、この瞬間にはその臆病な愚かな理性を忘れてしまつて……)「祖師様」と叫んだ。「何をお笑ひになりますか。悟空は勇あつて説く術を知らざるを真心から悲しんでお訴へ申してゐるのではありませんか。」――。

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 この「天地に説いて万世に遺さう」の目的語が解らないところだ。それが「名(名誉)」なのか「理(教え)」なのか。しかも「天下」ではなく「天地」なのだからややこしい。「天下」なら「民衆」「人々」になろうが、「天地」だと「天」にも何かを説くことになる。

 天?

 この地上にあって天とは天皇のことではないのか?

 天皇に何を説くのだ?

 悟空は涙を流してゐた、が、ふと、恥入るやうな体で、而も玄奘の顔を凝と瞶めながら、「それとも、この猿奴の悲しむ顔付が可笑しうてお笑ひになるので御座いますか。」と息を殺して玄奘の顔を見上げてゐる……。
「何で汝の顔などを笑ふものか。」と玄奘が答へると、
 ……悟空の悲嘆の色は、みるまに消えて、
「それでは何の為に。」と追求はしたが、今の愚問を冷静に玄奘が聞いてゐる事と、同時に己の顔の醜さを笑はれたのではないと云ふ事が解かつたので、もう先の問答など、どうでもいゝやうな気がした程安心し落着いて了つた。(が、安心し乍らも、何とまあ俺は他合もない奴なのだらうかな、と思つてゐた。)
「汝の云ふ事が余りに矛盾してゐるから可笑しうなつたのだ。説くことを求めぬ者が、何も非凡な妖術を押へて他人の許に従うてゐる用はないではないか。汝の妖術が汝一代で滅するといふことを知つてゐるならば、思ふが儘に暴れ廻つて悪魔共を征服し、悟空の王国を建てるは容易なことではないか。」
若し私が猿でなかつたら必ず王になつてお目にかけますが。」

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 玄奘はテロリスト、覇王の理屈を述べ、悟空は「若し私が猿でなかつたら必ず王になつてお目にかけますが」とまた剣呑なことを云う。

 記者。処女作として発表したのも、その二篇なんですか。
 牧野。それは、ずつと蔵つて置いたまゝで学校を出てから、友達と、「十三人」と云ふ同人雑誌の仲間に這入り、その第二号に「爪」を載せた。そして、その四号だかに「ランプの明滅」と云ふ、やはり十枚足らずのものを出した。その次には、島崎先生から、「新小説」が新進作家号を出すから、それに何か書いて見ないかといふおはなしで、「凸面鏡」と云ふ十五六枚のものを書いた。それから、「若い作家と蠅」とか、「蚊」とか……など云ふ変な小品を「十三人」に出してゐた。「闘戦勝仏」は「十三人」の一周年号の時、同人が皆んな揃つて書くと云ふのだつたが、私は慥か、夏で、田舎へかへり、海へばかり這入つて居て、何も書けなかつた。それで、秋になつて、東京に出て来てから仕方が無く、大へん気おくれがしたが、「闘戦勝仏」を出したのである。それが慥か処女作には違ひないのだが、別段それが処女作のやうな気もしないので……皆んなその当時のものは、同じやうな気がするのである。それで今、いろ/\な名前を挙げて見たのである。

(牧野信一『あやふやなこと』)

 牧野が処女作について語りたがらず、その背景には何もないと強調し、実際に『闘戦勝仏』を温存し、四年近く出し渋っていたという経過を見ると、そこに谷崎潤一郎の影響などを絡めることなく、ひどく政治的なものが見えてくる。

絵本西遊記 武笠三 校有朋堂書店 1926年

「然し汝よりも数等醜い妖魔共が到る処に王となつて、縦な快楽に耽つてゐるではないか。」
「それは私もよく存じて居ります。然し私が思ひますには、悪魔共がいくら王座にをさまつてゐても、あの見苦しい姿体と顔貌の所有者である以上は到底心からの満足を得てゐる者ではなからう、と信ずるのであります。」

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 仮に大正五年にこれを書き、大正九年にこれを発表していたとしたらここで「醜い妖魔」「あの見苦しい姿体と顔貌の所有者」と呼ばれている王は、大正天皇という理屈になる。


「汝は美女に愛さるゝのが本望なのか。」
「決して左様なことはありません、私は自分の姿の醜さを知つてゐる限り、寧ろ心に邪淫を思ふ時は恐ろしくてなりません。」
「では何のために生きてゐるのか。説くも求めず快楽も求めず、一生従者で犬の如くに死んでもかまはないのか。」
「仕方がない、と思つて居ります。」
「何故。」
「私は犬と同様なのです。なまじ猿が通力などを得たことが、反つて異様な醜さを赤裸にしたやうなものです。私は私自身が如何に不幸な運命の下に生れたかをよく存じて居ります。私は山猿で居度う御座いました。」 

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 悟空は自分がテロリストになるつもりがないことを強調する。しかしそもそも何故玄奘がこのようにそそのかしているのかが気になるところである。そしてさらに注意深く読めばここで悟空はマゾヒストであり、ドミナ願望があり、露出狂であることが解る。そんな作家が外にもいたな。


「……」玄奘は悟空の胸を察して、美しい眼瞼を伏せて黙した。悟空は卑しげな眼を窃に挙げて、恍惚として玄奘の顔を眺めるのであつた。
 稍暫く経つて、「祖師様!」とまた悟空は悲しげに叫んだ。
「私の真心を申し上げてしまひますから決してお笑ひ下さいますな、愚かな従者をお持ちになつた祖師様、祖師様のお嘆きは悟空の罪で御座います。――私は、今申し上げた通りこれと云つて何の望みもありませんが、実はその……私は、……。
 私は祖師様の、どうぞお許し下さい、その美しい眼、麗はしい顔、黒い毛の一本もない真白いお姿、整つた五体……それが何よりも羨しいのです。で、私は、たゞかうして祖師様のお顔を拝してゐられることだけが私の唯一の快楽なのです。」悟空は額を地に伏せて涙ながらに云つた。

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 夏目雅子の女性的な美しさに慣れたものが読めば、つい悟空のセクシュアリティを読み誤りそうである。悟空は必ずしも女性的な玄奘とまでは踏み込まず、あくまでも中性的な観音的な美を玄奘に見ているのであろう。悟空は天皇をおかずにはしない。おかずは玄奘なのだ。

南総里見八犬伝 四 滝沢馬琴 著||笹川種郎 校訂博文館 1930年
四大奇書 上 博文館編輯局 校訂博文館 1907年

「さうか。」玄奘は冷やかに答へた。
「私は、今迄随分と衆生を済度して参りました、がかう申し上げたらお怒りも御座いませうが、私は決して仏教に帰依する者として動いたのでありません。
 せめて私の卑しい悲しみに、あはれな喜びを与へたいがために――醜い悪魔共を征服して、私より美しい凡ての人間を救つて来たのです。若し悪魔の方がより美しかつたら決して私は彼等の敵とならなかつたで御座いませう。」
「私は汝を責めぬ。汝の正直を讚へる。如何なる慾から出たかは知らぬこと、兎に角汝は衆生を済度してゐることは事実だ。衆生のために栴檀功徳仏を希うて苦しみ給うた大釈尊も、万物の喜悦を見られ度いがためになされたのだ。吾も万難を犯して西天竺へ行くはみな本心から出た慾なのだ。(かう云はれても悟空には少しも解らなかつた、釈尊の心も師の心も想像出来なかつた。)何か慾がなくて動くことの出来るものではない。衆生済度に働きながらも尚その裏に動く慾心を正直に悔ゆるところは他人の真似の出来ぬ徳であらう。」玄奘は説き続けたが、悟空の悲しみの色は消えさうにもなかつた。終ひには「こりやどうも、おだてられてゐるのだか、憐れまれてゐるのだか、讚められてゐるのだか、或は度し難き馬鹿と見限られてしまつたのか、いや屹度さうに違ひない。」となど思つたりした。

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 牧野信一は「その裏に動く慾心を正直に悔ゆるところは他人の真似の出来ぬ徳であらう」として「エントゥシアスモス(神に充たされること・憑霊)」とエクスタシス(外に出ること・脱自)の霊的体験」の行動化などという屁理屈を鼻で笑って見せる。AかBかの話だとしよう。昭和天皇、美智子様、当時の三島由紀夫が惹かれるとしたらどちらであろうか。三島由紀夫は『仮面の告白』で主人公が腋毛ボーボーの男に惹かれるさまを描いたが、本当はどうなのかと。

 三島の霊がイタコで降りてきたら「こりやどうも、おだてられてゐるのだか、憐れまれてゐるのだか、讚められてゐるのだか、或は度し難き馬鹿と見限られてしまつたのか、いや屹度さうに違ひない」と言いそうなものだと揶揄って見せる。

鳳よ、鳳よ、お前の徳はどうして衰えてしまったのか。過ぎ去ったことは諌めても仕方がない、これからのことを考えよう。やめておけ、やめておけ、今の政治に携わるのは危険なことだよ

 

 この牧野の『闘戦勝仏』に谷崎潤一郎の『麒麟』の影響がみられるという見立ては慧眼であると武田信明のリンクをクリックしてみた。


 江戸時代の旗本に飛んだ。武将の「武田信春」とは別人だそうだ。なんと牧野信一は江戸時代から研究されていたのである。

[付記]

さうした三藏は「繪本西遊記」の主人公として少しも不自然ではない。北齋の描いた色男の三藏でもよく眺めてゐると、信仰一途で意地ツ張、偏執狂のやうな、しぶとい處が感ぜられる。

我が西遊記 上
田中英光 著桜井書店 1944年


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?