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中島敦の『山月記』をどう読むか③ 構成を捉える

 中島敦の『山月記』だけの話ではなく、おおよそ小説を読むということは、

①全体の構造を把握する

②粗筋をまとめる

③語句の意味を理解する

④「肝」の部分を捉える

⑤隠れていたものが見えてくる

 ……ということができていないと駄目でしょう。そういう意味では、繰り返し書いているように『こころ』で「私」の立ち位置が理解できていない人は①②ができていないので『こころ』を読んだとは言えず、

 Kを姓だと勘違いしている人は③ができていないので、やはり『こころ』を読んだとは言えず、

 先生が全肯定される現在が見えていない人は④ができていないのが駄目で、やはり『こころ』を読んだとは言えず、

 静子が生かされる意味が見えていない人は⑤ができていので、やはりやはり『こころ』を読んだとは言えないことになります。

 以上の理由から、これまでに夏目漱石の『こころ』を読んだと言える人は一人も存在しないと私は考えています。

 同様に中島敦の『山月記』もまだ一人の読者もいないでしょう。

 先日、少し書きかけましたが、『山月記』は、「若くして名を虎榜に連ねた李徴が虎になる」というふりと落ち、大きな物語構造を持っているわけですね。だから龍虎榜ではなくて「虎榜」なのでしょう。

 そしてこれが「大虎になる」と解釈できなくもないことは気が付いていましたか?

最早、別れを告げねばならぬ。醉はねばならぬ時が、(虎に還らねばならぬ時が)近づいたから、と、李徴の聲が言つた。 

(中島敦『山月記』)

 この「醉はねばならぬ」≒「虎に還らねばならぬ」ならば、これは大虎ですよね。

 どうも『山月記』はそんな冗談めいた仕掛けがある作品なのです。

   解っていました?


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