是見よと刹那を急ぐ白髪武者 夏目漱石の俳句をどう読むか89
勢ひやひしめく江戸の年の市
ネットの歳末バーゲンセールも含めて「年の市」とは昔から続いているものと見做しているのだろうか。解説には年の市の説明もない。
しかしこういうものこそが明らかに絵面を変化して、名前だけ同じものなのではなかろうか。
昔の映画で、チャールズ・ブロンソンが馬鹿でかい電話機を使っているのを見て思わず噴き出したことがある。そういう意味では、
勢ひやひしめく江戸の年の市
この句の景色はもうどこにもなく、妄想ですら追いつかないものになってしまっているのではなかろうか。
そもそも売られているものが違う。今、年末に鹽肴など買うまい。魚介類にしても冷凍の海老やまぐろなどが買われている筈だ。
こんな木綿売りがいたり、
こんな山猫回しがいたり、
小屋も建つだろうけれども、むしろ花火線香、扇地紙と担いで売り歩くパターンも多かったのではないか。
これは今の商店街でやるとどこかから怖いお兄さんたちが現れてどこかへ連れていかれる商売のやり方なのだが。
是見よと松提げ帰る年の市
この松にも解説がつかない。松飾なのか門松なのか。今門松は巨大オフィスビルの玄関にくらいしか置かれなくなった。クリスマスツリーはあちこちに見かけるけれど。何なら松飾のシールが売られている。
この句の松は「是見よと」自慢できる大きさの松なのであろう。
こんな感じで。
こんな感じで。
松は常設では売れないので担いでいたんだろうと思う。
門松の形も違う。
門松の形もいろいろだ。
行年や刹那を急ぐ水の音
時間というのは不思議なもので、いつの間にかなくなっている。
あるいは人はある一定の期間しか存在できない。しかし刹那を生きるしかないのだ。
時間はしばしばこうした動きとして表されてきた。確かに時間は何かを変化させるので、動きは時間のメタファになれる。しかし時間そのものはけしてとらえることができない。
行年や実盛ならぬ白髪武者
そして人は誰でも年を取る。
年老いる。
みんな死んでしまう。
この白髪武者の著しい特徴は、この時の流れに身を任せて、何の抵抗もせず、武者なのにすっかり兜を脱いでしまっていることである。しかし禿げてはいない。
そして明治維新も廃刀令も知らず、年の市に迷い込んだタイムトラベラーなのである。
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