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それはまだどこにもない 芥川龍之介の『誘惑』をどう読むか④

 昨日は猿が変身する悪魔だと書いた。これまで見てきたように芥川の切支丹ものにおいては悪魔とは兎に角変身するいきものであった。

 従ってパイプに変身したり、お菓子に変身したり、傾城に変身するのは悪魔に決まっている。

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「さん・せばすちあん」の上半身。彼は急に十字を切る。それからほっとした表情を浮かべる。

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 クローズ・アップ。顔への寄り。その「ほっとした表情」の意味は解らない。観る者の興味を惹こうという算段だ。

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 尻っ尾の長い猿が二匹一本の蝋燭の下に蹲うずくまっている。どちらも顔をしかめながら。

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 下には二匹の猿がいたのだ。戦況は不利らしい。

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 前の洞穴の内部。「さん・せばすちあん」はもう一度十字架の前に祈っている。そこへ大きい梟が一羽さっとどこからか舞い下って来ると、一煽に蝋燭の火を消してしまう。が、一すじの月の光だけはかすかに十字架を照らしている。

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 洞穴の内部なのに、月の光が十字架を照らす?

 どうやらこの際芥川は矛盾など歯牙にもかけないらしい。梟を呼ばなくとも蝋燭の炎は猿が尻尾で消せばよかった。

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 岩の壁の上に懸けた十字架。十字架は又十字の格子を嵌めた長方形の窓に変りはじめる。長方形の窓の外は茅葺の家が一つある風景。家のまわりには誰もいない。そのうちに家はおのずから窓の前へ近よりはじめる。同時に又家の内部も見えはじめる。そこには「さん・せばすちあん」に似た婆さんが一人片手に糸車をまわしながら、片手に実のなった桜の枝を持ち、二三歳の子供を遊ばせている。子供も亦彼の子に違いない。が、家の内部は勿論、彼等もやはり霧のように長方形の窓を突きぬけてしまう。今度見えるのは家の後ろの畠。畠には四十に近い女が一人せっせと穂麦を刈り干している。………

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 酒鬼薔薇君の『絶歌』にはナイフにフォーカスして引きの画で場面転換という技法が用いられた。「刑事コロンボ」シリーズなどで多用される技法だ。酒鬼薔薇君は写真にフォーカスして引きの画で場面転換という繰り返しの形でこの場面転換の技法がたまたまではないことを示した。

 芥川がここで見せているのはそんな借り物の技法ではない。「十字架は又十字の格子を嵌めた長方形の窓に変りはじめる」という場面転換のやり方は、もう映画では見慣れたもののようには思われるものの、芥川がどういうところからこの場面転換を思いついたのか、ちょっと不思議である。

 類似の形を変形させる。一旦引く。そしてカメラは窓を突き抜けて室内を捉える。これも現代ではけして見られない絵ではないが、窓の外から中に入って行く映像には必ず編集によるトリックが必要であり、そのトリックを前提にしなければとても思いつくはずもない画だ。

 ただカメラで何かを撮影するだけではなく、さまざまなエフェクト編集機能を手に入れれば、そういうことも思いつくだろうとは思う。しかし何かを参考にしなければ、こんな書き方がされうるものであろうか? 

 夏目漱石の『倫敦塔』にも空想シーンはあるが、ただ空想が現れて消えるだけで、こうした映像を前提にした場面転換の技法は見られない。そうして時間稼ぎをしながら私は現代作家の作品を含め、こんな場面転換が描かれた作品があったかと記憶をぐるぐる回して辿っているのだが、類似の形の変形も室内に入って行くカメラも、なかなか出てこない。

 結果として思い出したのはやはり芥川の『葱』における器用なカメラワークだ。ちょっと確認してみてほしい。明らかに芥川はドローンカメラを飛ばしている。

 省略法までは酒鬼薔薇君にもできた。もしかして酒鬼薔薇君も俳句をやっているのか、と疑うくらい見事にやって見せた。しかし芥川が見せたこの器用なカメラワークまでは、これまで誰も真似できなかったのではなかろうか。

 石野家は商店街の尽きた角地に六百坪をブロック塀で囲い、二つの池と果樹の間に二階建ての母屋と建て増しした二つの離れを巡らす。表門には石垣に囲まれた巨大な松が植えられ、白い砂利敷の真ん中に御影の踏み石がくねって玄関まで続いていた。玄関の前には青銅の柵がやや白茶けている。欅の一枚板の式台は木目を鮮やかに油で磨かれ、蝦夷桧葉の上がり框と長い廊下に続いている。廊下の突き当りは応接用の洋室で、洋室をコの字にに巡った真裏に村雨春陽の書斎がある。
 書斎には書き物机と四人掛けのソファーがあり、スライド式の高い本棚が三方を囲んでいた。中庭に面した小窓からは離れの二階にある村雨春陽の寝室の窓が見える。
 今朝はまだカーテンが閉められたままだ。

 こうしたカメラを引き連れての視点の移動までが現代文学では許容されていて、それ以上カメラで遊ぶとベテラン編集者に「変なところに凝らずしっかりテーマを書け」と怒られそうだからやらない、というのが現実的な線だとして、たしかにカメラをあまり意識させないようにするのが作法だと、割と窮屈な諦念に囚われていたのではないかという気がする。

 すっかり忘れていた作品にこんな技法が使われていたことは驚きである。つまり私は相当なぼんくららしい。

 こんなことではいけない。と反省して今日はここまで。

[余談]

 場面転換って結構難しいから、やたらと☆で区切ったりするのは「照れ」でもあって、確かに何かにフォーカスして引きの画で場面転換というのは一生に一回までかなという気がしないでもない。やり過ぎるとちょっとね。

 それにしても窓からカメラが透過するとは……

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