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平凡すぎる彼の嘘 牧野信一の『爪』をどう読むか①

 本人の弁によればこれはどちらかわからないほぼ処女作の一つである。らしく書かれている。

 寒い晩だつた。密閉した室で、赫々と火を起した火鉢に凭つて、彼は坐つて居た。未だ宵のうちなのに周囲には、寂として声がなかつた。

(牧野信一『爪』)

 最初は一言。次に従属節から始まり少し長く、それをもう一つ。三行目をもう少し長めに繋いでいくやり方は、誰が始めたかわからないが、長短の文章を絡めてリズムを作っていくやり方は現在では最もありふれた作法の一つだ。

 最初を少しだけ長く、次を極端に短く、その次をやや長くでもいいし、最初からやや長いものを持ってきてもいい。この話法の特徴はどこかに短い一言を入れてくることだ。そういう書き出しは少なくとも森鴎外の『舞姫』には確認できるが、幸田露伴の「木理美しき槻胴」がそのパターンにあるのか、それはまだ古い日本語に属するのか意見の分かれるところであろう。少なくとも川端康成の『雪国』まではどこかに短い一言を入れてくる長短の文章を絡めてリズムを作っていくやり方は新鮮なものであったのだろう。今ではあまりに使われ過ぎて、やや嫌われるやり方である。

 しかしなかなからしいではないか。

 彼は二三日前から病気と称して引籠つて居た。別に、どこがどう、といふのではなかつたが、それからそれへ眠り続けた勢か、頭は恰でボール箱の如くに空漠として、その上重苦しい酒の酔が錆び付いてるやうで、起きる決心が付かなかつたのである。焦れぬいてゐるのだつたが、頭は容易に自分のものに返らなかつた。尤も彼には、こんなことは応々の事で、一寸とした新鮮な感じに行き当りさへすれば、ひよいと治るのであつた。

(牧野信一『爪』)

 どこでどう覚えたものか妙に達者である。当時としてはかなりこなれた書き方ではなかったか。新かなづかいに改めて見せたら、これが大正時代の日本語だとはほとんど気づかれまい。逆接の接続詞「が」が二回続いたところでさして気にはならない。112文字と81文字の比較的長めのストロークがそう意識させないのだ。

 室には煙草の煙りが蒸せ反る程詰まつて居る。午迄眠つて、残りの半日を煙草と濃い珈琲とばかりで暮してしまつたので一層ぼんやりして居た。――それでも彼は手から煙草を離さうとはしなかつた。金魚のやうに、ぷかぷかと煙を吸つては吹いて居る。

(牧野信一『爪』)

 なるほど殆ど「私」のようなものを「彼」と呼んでみることで辛うじてこの書き出しは成立している。「彼」は意識から逃れられない「私」より少し突き放されて書かれている。それはまた「私」が「私」を語るいかがわしさの回避でもあるのであろうが、かといって「彼」を観察できるものが外にいるはずもないのだが。

 彼は早く治りたい、と焦れるより他何にも考へては居なかつた。ごろり寝転んだり、又坐つたりしてゐる。時々大きな声で出任せな唄を発した。つい無意識に余り馬鹿馬鹿しい文句を吐いたのに気が付くと急に可笑しくなつて、ひとりで笑ひ出しさうになつたりした。
「チエツ」と彼は舌鼓を打つた。さうして俄に立ち上つて、着物の襟を正したり帯を絞め直したりしたがそれでもいけないので、此奴を懲らしめてやれと、自分の手で自分の頭を一つポカリ殴つた。と又そんな仰山らしい事が可笑しくなる。密に冷汗を覚えながら、他人に見られやしないかと回りに気を配ったりした。

(牧野信一『爪』)

 谷崎潤一郎が「チヨツ」、漱石が「えつ」と舌打ちするところ牧野は「チエツ」と舌鼓を打つ。

 なるほど石川啄木も「チヨツ」と舌鼓を打っている。文章のことはひとまず置こう。どうも彼は少しおかしいようである。とはいっても作家や詩人はたいていどこかおかしいものなので気にすることもあるまいとは思うのだが、本人はどうも気になるらしい。

 まともな人間は立原道造くらいだ。

 結局は再びごろりつとなるより他はなかつた。呆然と天井を覗める。又大きな声が出さうになる。手はいつか煙草に触れてゐる。――こうした動作が何辺となく繰り返されて来たのである。
 彼は何にも考へずに黙つて坐つて居る

(牧野信一『爪』)

 寝ているんだか座っているんだかわからない。どうしようもない男が一人、悶々としているという世界中のあらゆる場所で有史以来繰り返されてきたありふれた景色がそこにある。苦しいとか死にたいと言わないだけ救われている。

 ところで本多はその名前の通り本をたくさん読んでいるのに、松枝清顕は本を読んでいる様子がない。「彼」も本を読まない。これはわざと読ませていないのだろう。牧野信一自身は細切れにせよ、そこそこは本を読んでいた筈だ。むしろそちらが病気のようなもので本を読む人は三日も本を読まないことに耐えられない。しかし牧野は本を読まない「彼」を捏造しようとしている。その狙いがどこにあるのか。それはまだ誰にも解らない。何故ならここまでしか読んでいないからだ。


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