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山陰に斧振り上ぐる水の音 夏目漱石の俳句をどう読むか91

 全裸の人は何故真っ裸なのだろうか?

 そんなことを考えていた。

 それは恐らくその人が服を着ていないからなのではあろうが、逆に言えばその人以外が服を着ているからこそ、全裸と呼びうるのではないかと。

 本来自然なものである筈の全裸には、自然でありながら真っ裸という念押しが与えられた。言葉とはそのような社会的なもの、文化的なものである。

白馬遅々たり冬の日薄き砂堤

 子規の評点が「◎」なのは思いっきり遠景の海岸の様子を捉えているからか。「遅々たり」とはこの暮れのせわしさの中で、駆けるほどの用事もないのだろう。

 あるいはこれこそが穢多寺へ嫁ぐ花嫁をのせた白馬の姿かもしれないと考えた時、ただ人のあらゆる存念を排して、印象派のようにただ景色に留まるこの漱石の句は差別意識云々を論うつまらない解説の決して届かないところに遊んでいるなと感じる。

 勿論それが同じものの裏表ではなく、一つの意匠であることは間違いないのだ。憐れも意匠、「遅々たり」も意匠。こちらが良いなというだけの子規の評点に孫に引かれる白馬は何度も頷いている。

山陰に熊笹寒し水の音

 子規に

魚棚に熊笹青き師走哉

 という句が有る。漱石の熊笹は自然に生えているもの。子規のは魚屋のものであろうか。

此句の次に「冬枯れて山の一角竹靑し」其前には「山陰に熊笹淋し水の音」がある所を見ると、先生が此等の句を作つた時、少くも頭の中ではかう云ふ場所を步いてゐたのだらうと想像される。

漱石俳句研究

 こう言っているのは寺田寅彦である。

初冬や竹切る山の鉈の音

冬枯れて山の一角竹青し

 なるほど。

竹伐る山というて來ると、どうやらその伐り時の竹山をいふやうにとれる。さうでなく臨時に只一二本を伐るのだと、普通の言ひ方では山の竹伐る鉈の音といふべきだからな。

此音そのきんきんと云ふ銳い然し淋しい音が山に響いて聞えるそれは竹を切つて居る音だといふのでせ蓬里雨松山にはかう云ふ樣な竹山はないかね、松根君。

漱石俳句研究


 こう福岡出身の小宮豊隆が質問して、

松山といふ所は市の眞中に城山が一つ孤立してゐるばかりで、市の周圍にやや離れてある山山は火山系の山で、多く地肌の露な松位生えた山で竹なんかない。あつたところでどこかの谷間にすこし位あるかもしれないが、竹山といふ程ではない。

漱石俳句研究

 と松山出身の松根東洋城が答えている。こうなると、先の

是見よと松提げ帰る年の市

 が怪しくなる。松を買うんじゃなくて、買うなら竹のような気がしてくる。


職人歌合画本 [4]

 しかし竹売りの方にやる気がないので買わなかったのか。

 一応話の流れとしてこれらの句は皆想像ではないかということにはなるが、それにしても山陰に「熊笹」がとして見えたとして「水の音」として水流のが聞こえてくるのはさすがだなあと感心する。それで「寒し」が温度、なのだから恐れ入る。まさに空想の中に五感をダイブさせて詠んでいるわけだ。

 それに比べると

初冬や竹切る山の鉈の音

冬枯れて山の一角竹青し

 はそれぞれ眺めに絞った分単調ではあるが、これも

山陰に熊笹寒し水の音

 この句で現場に臨場しておいて一気に体を引き戻して遠景に構え直したところのめりはりをみるべきか

 この三つの句の子規の評点はともに「◎」である。

炭焼きの斧振り上ぐる嵐哉

 この句は炭焼きが燃料の薪を割っている景色に、ただ言葉だけ「嵐」が足されているような感じがする。嵐が近いから作業を急ごうとしているのか、嵐の中作業しているのか。
 はたまた斧を振り上げた動作に嵐のような勢いを感じたのか。

 嵐という言葉がそぐわないというか、意味に達しない。

明治四大家俳句集 春夏

 嵐をほんものの嵐と見るか、比喩と見るかがどうにも定まらない。

 ただ斧を振り上げて何で炭焼きかというと、炭売りのように顔やら手やらが黒いんだよと、そういう仕掛けがあるようには思う。そのくらいしか解らない。

 まさか嵐のメンバーたちが真っ黒になりながら薪を割っている訳でもあるまい。


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