春待つや腹は中々大晦日 夏目漱石の俳句をどう読むか90
春待つや云へらく無事は是貴人
無事は是貴人とは禅語で「どんな境遇にあっても、あたりまえのようにこなしていける人こそが貴ぶべき人である」という意味だそうである。つまり「どんな境遇にあっても、あたりまえのようにこなしていける人こそが貴ぶべき人であると言ったそうだから大人しく春を待っていよう」という解釈になるのだろうか。
これが禅語でなければまるで「戦争では貧しい農家の次男三男がバタバタ死んでいって貴族は無事だ。春(平和)が待ち遠しいことだなあ」とでも解釈してしまうところだ。
調べていくとまるで平野啓一郎の『三島由紀夫論』を批判するような文章が出てくる。
なんでや?
年忘れ腹は中々切りにくき
三島由紀夫か!
という句である。まあ「暮れになって、今年も生き延びてしまうことだなあ」くらいの軽い調子の句と解釈していいだろう。
こんなところに漱石の自殺願望を「発見」してしまってはいけない。
屑買に此髭売らん大晦日
この「屑買」に註が付いていないけれども、みなさらりと理解しているのであろうか。江戸時代というのは究極のSDGs社会で、何でも再利用されていた。明治になってもその文化風習は続いていた。
ただし「屑買」だから何でも買うというものではなく大抵は紙屑を買うのであり、落ちていれば拾う紙屑拾いと同じで、下駄直しに限らず何でも屋的な者もいたようだ。髭は……日本刀より売れにくいものであろう。
この句は大晦日になってももう屑屋に売るものがないぞ、と開き直っている句と解釈しておこう。
穢多寺へ嫁ぐ憐れや年の暮れ
岩波の解説は「穢多寺」の説明に加えて「この句は漱石の差別意識をはっきりと示している」と書いてしまっている。
ええと。
まあ「穢多」の説明をした以上、何か自分の立場をしっかりと安全なところに置いておきたいという気持ちは解らないではない。この「穢多」は現代では差別用語で滅多に使われることはない。
しかしここに現れているのは漱石独自の差別意識というわけではないということも見ておかねばならないのではなかろうか。
例えば現在ではこういう人を「美人」と呼んでも差別になるそうだ。村上春樹さんの『謝肉祭』を「ルッキズムが酷くて読めなかった」という男の人がいた。今はそういう時代である。
ところで大正十五年、仲仕、馬子、紙屑買いをわざわざ「高等な職業」と皮肉を言っている人がいる。最近もどこかの知事が馬の世話をしている人を差別するような発言をして辞任に追い込まれたけれども、それは心の中で思っている差別意識を面に出すと叩かれるというだけで、肥え担ぎに本当に憧れるのは三島由紀夫の小説の主人公くらいなものであろう。
この句に於いて漱石が「穢多寺へ嫁ぐ」ことを「憐れ」と結び付けていることは確かに差別と言えば差別なのだが、現代の感覚で昔の差別意識を裁いてしまうやり方には何か引っかかる。これは漱石の差別意識というよりはその時代の差別意識なのではなかろうか。
この当時は支那人に対する差別意識も露骨なものであった。
このことと、
後に漱石も下女の尻を傘で突いた支那人に対して激しく怒っている。
このことは別の話で、下女の尻を傘で突つかない支那人に対していわれのない攻撃をすればそれは差別なのだろう、と私は思う。
例えば時代の感覚から明らかにかけ離れた強烈な差別意識が示されていたら「この句は漱石の差別意識をはっきりと示している」と書いてもいいと思うが、この句に対して「はっきりと」は書き過ぎなのではなかろうか。
島崎藤村の『破戒』が明治三十八年。
こういう時代の感覚は時代の風俗とともに、しっかり見ておかねばならないと思う。
[余談]
雨が降っている。
殆ど何の希望も無いような顔で歩いている人がいる。
殆ど何の希望も無しに傘をさしている。
納豆とふりかけで朝食をすました殆ど何の希望も無い人が今この記事を読んでいる。
殆ど何の希望も生まれない。
就中妙に気の毒だったのは今日が月曜日だということだ。
何の希望も無い平日が五日間も続き雨は降り続ける。
そしていつか死ぬ。
一億か二億か、それっぽっちの小銭を残して。
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