平凡な男だ 芥川龍之介の『誘惑』をどう読むか⑭
昨日は何故か芥川がおちんちんにこだわっているという話を書いた。何故なのかはわからない。しかしナポレオンの立小便にしても男の人形にしてもおちんちんなしでは成り立たないことなのだ。
もう何かが何かに変化することには驚かない。むしろ猿が無視されづけていることが気になる。船長も「さん・せばすちあん」も猿がいないか、あるいは見えないかのごとくふるまう。どうも『誘惑――或シナリオ――』は無視される猿の話のようだ。
ここでも二匹の猿に変化した赤児、ユダにして元船長は振り向かれもしない。そうではなくて別のものが「指さされる」代わりに「見ろ」と云う手真似で指摘されるのだ。繰り返し書かれるこの手真似は矢張り具体化されない。
ところで二人は一体何語で会話をしていたのであろうか。紅毛人同士はオランダ語で話していたことだろう。
Judasの文字はスペイン語で「ホダス」に聞こえ、フランス語では「ユダ」とSが聞こえず、オランダ語で「ユダス」に聞こえる。
そもそも彼らの間では会話というものが成立していたのだろうか。
「磯ぎんちゃく」と海月は別々に存在したのか、それとも「磯ぎんちゃく」が海月に変化したのか。もはやそれは消えてしまったのだからどうでもいい。月の光を受けていた景色が暗闇の中を回る地球になってしまったのだから、そこには「見ろ」と云う手真似で示される画があるに過ぎない。不思議なのはどこかが夜ならばどこかは昼であるという地球と太陽の関係性が無視されて、月と地球の中で光がやり取りされていることだ。芥川はここでも「小さい地球」と書き、とんでもない距離にカメラを置いてみる。そんなに遠くからでは、おそらく猿は見えないだろう。
やはりこれは白黒の無声映画だったのだ。「白いオレンジの截断面」と書かれる程度にこの世界からは色彩が排除されている。地球の変化はブルーからオレンジ色への変化ではなく、表面のぶつぶつした質感の変化だったのだ。ヘタが北極にあることを南半球の人は良く思わないかもしれないが芥川はそんな南北の対立を賺すようにナイフの向きを書かない。オレンジが縦に切られるわけはないという思い込みは、「截断面は一本の磁針を現している」という記述に引っかかる。
横に切られたオレンジの断面は方位磁石の盤面のようではあるがそこには針はない。
もはやここがどこかという説明すらない。洞穴の中なのか、外なのか。ただ芝居は大きい。「何か狂人に近い表情」というものは昔のテレビドラマや映画では盛んに見られたが、今ではなかなか見られなくなった。
しかしこの場合狂っているのはむしろ舌の上にスフィンクスをのせたり、意味なく髑髏を出してくる船長の方ではなかろうか。「さん・せばすちあん」自身については、何か追い詰められた感はあるものの、さして奇抜なふるまいをしたというわけでもない。ただ困っているだけのとりわけ手柄もない人なのだ。
火取虫とはまた曖昧な書き方をするものだ。髑髏は斧の小町とは関係がなかろう。
場所は洞穴の中だった。そこに光源はあるのか。火取虫は明りを目指さないのか。蝙蝠は戻ってこないのか。
先に鷹が出てきたような気がしたが、それは漱石の俳句だった。
色々と並行して書いていると記憶がこんがらがる。
しかし飛んでいるのが洞穴の中なら鷲には狭すぎるだろう。ここは洞穴を広げるなと思いきや、
案外お構いなしだ。終局に向けて終わらせ方を探りつつ、ある程度は「繰り返し」というものを意識しているのだろう。鷲は無視される。猿はどこへ行ったことやら。
これはアングルを切って下半身へのクローズ・アップという画か。やはりコマ落ちの画はかくかくとしている。
これもクローズ・アップだ。
宗教画を描かない印象派の画家たちに見せつけるようにして掲げられた十字架。それは天照大神のコピーの娘が日本赤十字で夜八時まで残業するようなするようなまがごとなのではないか。
何故か船長は「さん・せばすちあん」に背を向けていたのか。しかしこの「何か」が「さん・せばすちあん」なのかどうかは定かではない。しかし猿ではないという予感はする。鷲との位置関係も解らない。
日本赤十字の女事務員が永井荷風に売春を持ちかけていたことを宮内庁が知っているのかどうかも私には解らない。
何もかも解らない。
もう夜が明けるのか。
カメラは船長についていく。「船長の後ろからは猿が二匹」という表現からはカメラマンが船長の前にいて、下り坂を後ろ歩きしながら撮影している感じがする。とても危険な撮影だ。何しろ今のジンバルカメラと違って昔のカメラは重いのだ。そのため手振れというよりは画面がシンプルに上下する。しかし芥川のカメラは揺れない。
船長は目的を果たしたのかあきらめたのか。猿は船長の仲間なのか。誰か見えないものとは何なのか?
何も解らない。
私にわかっているのは今晩のおつまみのことだけだ。
果たして「さん・せばすちあん」はうつ伏せなのか仰向けなのか。そういえば「さん・せばすちあん」は晩飯を食べたのか。
スペインのサンセバスチャンはグルメな町だ。「さん・せばすちあん」はバスク人?
「さん・せばすちあん」は仰向けだった。しかし涙が目じりに流れず頬に流れるのだから完全に上を向いているわけではない。顔に少し角度が付いている。これは『それから』の代助の読んでいた新聞が顔ではなく夜具に落ちるのと同じ原理で、
こういう細かいところを書くのが文学だ。
テエブルの右には何があるのかを芥川は書かない。ハートやダイヤは赤いから避けたのか。しかし画札には何かしら色が必要であろうに。
あのトランプとこのトランプが同一のものだと芥川は書かない。あらゆる事物は、言葉は無標性に留まる。顔は紅毛人の船長と変りはないとしてもこの主人が船長だとは書かれていない。ゴッホにこんな絵があったように思うけれどそれはもういいだろう。
この朝日が「さん・せばすちあん」を照らしたものかどうかもはなはだ怪しい。芥川の描いた宇宙にはいくつもの太陽といくつもの地球があったからだ。あれとこれとが最後まで結びつかない。
そしてさすがは芥川。色彩を隠した話の最後に「色彩を帯びた」と洒落てくる。しかも「さん・せばすちあん」には一つとして伝説的要素が見当たらない。彼はただ困惑する人だった。
この落ちは色彩をずっと隠して「色の出し方が洒落ている」と落とした『三四郎』のひそみに倣ったのか。
なんにせよ、とてもすごいものを読まされた気がするよ。
ありがとう。芥川。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?