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富士山は天皇か 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む22


  本多は、いずれは誰もが例外なく死ぬ、という生の絶対的な条件下で、決して「駈けた」経験がなく、誰かに救済されるような果敢な行為で危機に瀕したこともない。そして今後、「自分の人生が決して輝かしいものになることなく終わるという、利己的で憂鬱な確信の虜」となっている。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 平野は躊躇なくこの自覚を三島由紀夫と重ね合わせて見せる。しかし三島の不安に自分を重ねることは敢えてしない。茶髪にピアスの京大生も年齢的にはこの時点に差し掛かり、だからこそこの『三島由紀夫論』を書き上げたのではないかと買いかぶっていた私はいささか虚を突かれる。
 図書館の数だけこの本は売れるが、その努力に見合う見返りでは無かろう。平野啓一郎自身は今どう思っているのか。そこが見えないと本当の三島由紀夫論にはならないのではないか。

 三島由紀夫は『林房雄論』を書いてさえ「三島由紀夫論」になってしまう男だ。しかし平野啓一郎の『三島由紀夫論』には平野啓一郎の歪んだセクシュアリティも天皇制打倒の野望も見えない。腹を切るという未来も今のところ見えない。

 この日本に今何を思うのか。PPAPに文句をつけていれば満足なのか。

 浅田彰は自分はなんという『土人』の国にいるんだろう、とまで発言した。内容はともかく、これは正直な声だ。

 本多にとって、絶対者としての天皇の存在が完全に欠落している、という点では、『仮面の告白』の「私」や『金閣寺』の溝口と同様である。しかし、溝口は〈絶対者〉としての金閣との一体化を夢見ており、そこに作者の天皇観が透けて見える、というのは、既に論じたとおりである。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 これが間違いであることは既に論じたとおりである。

 何度か繰り返されたこの仮説がいつの間にか前提となり決定事項として扱われる言説の中で、平野啓一郎はすでに失われた古代エルゲルシャイム文明におけるオドラデク神の〈絶対者〉としての位置づけを語るかのように、現行日本法規の下でも規定される「天皇」を標本化してしまう。

 それはあくまで三島由紀夫の天皇観だとしながら自身は「天皇」などというものとは楯にも横にも斜めにも無関係だと切り分けたいかのようである。

 それにしても三島由紀夫が「天皇」と書いていないところに「天皇」を持ち出し過ぎているので、そこには過剰な何かがある筈なのだが、これまでのところはあくまで三島にかこつけて書いていて、決して尻尾を掴ませようとはしない。

 平たく言えば平野啓一郎がこれほど三島に天皇を求めるのは、「富士の見える場所にブロンズ像を立てよ」と命じた三島由紀夫の第二の遺書を読んでいないか、そのレトリックが理解できなかったからではあろう。

 私の記憶が確かならば、この「富士の見える場所にブロンズ像を立てよ」という三島由紀夫の第二の遺書が一般に明らかにされたのは三島由紀夫の死から五十年後、西法太郎の『三島由紀夫事件 50年目の証言—警察と自衛隊は何を知っていたか』が刊行された2020年以降のことであろう。70+50=20。計算上はそうなる。

 この詳細な記録の中からは、事件直前の佐々淳行らの動きなどいくつもの面白い情報が確認できるが、私自身最も意外だったのは、この遺言状に見られるヒロイズム、そして「富士の見える場所に」というレトリックだ。

 ヒロイズムに関しては市ヶ谷に向かう中古のコロナの中で隊員たちと当時流行していた「唐獅子牡丹」を大合唱したという記録(関川夏央『昭和時代回想』)等でちらりと見えていたものの、ブロンズ像で念押しされた感がある。

 この「唐獅子牡丹」単体で考えるとまさに「義」のために死すという覚悟で一旦は整理できるものの、ブロンズ像はなかなか扱いづらい。

 しかしその場所の意味するところは明確であろう。

 これはまさに「日本を象徴するもの、それは富士山だよ、天皇ではない」というあちらを指してこちらを指さない文飾ではないか。

 皇居が見える場所に、伊勢神宮が見える場所に、と三島は書かなかった。おそらく平野啓一郎はこの意味に辿り着いていないのではないか。
 
 本当にそれでいいのか?

 まだ時間はある。

 しかしやがて無くなる。 

 平野は、いずれは誰もが例外なく死ぬ、という生の絶対的な条件下で、決して「書けた」経験がなく、誰かに救済されるような果敢な行為で危機に瀕したこともない。そして今後、「自分の『三島由紀夫論』がなんとか文化賞とかもらって輝かしいものになるという、利己的で憂鬱な確信の虜」となっている。しかし内容が間違っているという事実をいまだ知らないでいる。

 本当にそれでいいのか?

「創作ノート」によると、三島は当初、この第二部に「レズビアン」の女性を「恐ろしい魔女」として登場させ、富士山を象徴としつつ、レズビアニズム自体を主題化する構想を抱いていた。それが慶子の原型であり、その案では、ジン・ジャンは慶子の「魔手」に襲われるも、本多によって救われる、という筋書きだった。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 平野はこう書きながら何故『仮面の告白』や『金閣寺』では富士山が隠蔽されていたのであろうかとは問い直さない。

 もしも三島由紀夫の第二の遺書を読んでいたら、自分が書いてさえ「富士山を象徴としつつ」とう言葉にはドキリとする筈なのにいかにも無反応だ。

 また、富士山についても、本多が、その残像を青空に見る「秘法」を会得してからは、現象と本質という『暁の寺』を貫く二元論の象徴という機能を宛てがわれることとなり、レズビアニズムとは無関係なものとして描かれている。真夏の青空に浮かぶ残像としての「的皪たる冬の富士」は「純白の本質」である。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 こう書いてさえブロンズ像には触れないということは、平野啓一郎は西法太郎の『三島由紀夫事件 50年目の証言—警察と自衛隊は何を知っていたか』も、

 これも読んでいないのだろう。

 もしかしたら平野啓一郎が新潮社に頼めば、新潮社の保管する三島由紀夫の全テキストテータに全文検索して「富士」または「富士山」についての言及をすべて洗い出してくれるかもしれない。
 しかし気が付かなければ調べることもできない。

 まだ時間はある。

 しかしやがて無くなる。

 時間というものはそういうものだ。

 さすがにこれだけの厚さの本を書けば何事かを成し遂げた感があるのかもしれない。しかしまだ平野は土人の国で三島由紀夫についてはずいぶん書き漏らし、間違ってもいる。

 このままでいいのか。

 あとちょっと頑張れ。

 三島由紀夫について書けるのは自分だけだと増上慢で西郷さんになって「唐獅子牡丹」を歌え。新潮社に頼んでテキスト検索データを貰え。

 三島由紀夫に偽装した、させた責任は両者にある。

 このままでは駄目だ。


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