見出し画像

屋根裏に鳴くや環境依存文字 芥川龍之介の俳句をどう読むか34

あかつきや蛼なきやむ屋根のうら

 蛼を「こおろぎ」と訓じている人もあるがルビは「いとど」とふられている。そして巴旦杏をスモモ、蛼を「こおろぎ」と説明してしまっている人もいるが、他人に説明する前にはよく調べた方がいい。

※「蛼」  ……「あしまつい」、こおろぎ。

歲時記には「竈馬」にこほろぎ、いとゞの兩訓を施してあるが、いとゞは色淡く鳴かないし、こほろきは黑く、秋になると鳴く。


評釈おらが春 勝峯晋風 著十字屋書店 1941年

 要するに「蛼」とは「李」とあえて書かずに「巴旦杏」と書くような細工である。

あし‐まつい【足纏】(‥まつひ) 「はりがねむし(針金虫)」の異名。

日本国語大辞典

いとど
昆虫カマドウマの異称。〈[季]秋〉。猿蓑「あまのやは小海老にまじる―かな」(芭蕉)

広辞苑

いとど
昆虫カマドウマの別名。羽根がないので鳴かない。江戸時代,コオロギの一種とみなされた。エビコオロギ。[季]秋。《海士の屋は小海老にまじる―かな/芭蕉》

大辞林

いとど
カマドウマの古名。《季 秋》「海士(あま)の屋は小海老(こえび)にまじる―かな/芭蕉」

大辞泉

いとど【蟋蟀・竈馬】
《名詞》
昆虫の名。かまどうま。

学研古語辞典

いとど 昆虫「かまどうま(竈馬)」の異名。

日本国語大辞典

いとど 「かまどうま」の古名。

学研国語大辞典

 現代の主要な国語辞典では「いとど」に「蛼」の漢字をあてない。そしてほぼ「かまどうま」の意味に解する。「かまどうま」は「便所こおろぎ」「オカマコオロギ」とも呼ばれ、跳ねて人を驚かせるばかりで鳴かない。

 したがってこの句で詠まれているものは「コオロギ」なのであろう。


俳諧七部集 : 全釈 第2巻 (猿蓑集 前) 萩原蘿月 著改造社 1941年

 芭蕉の句、

海士の屋は小海老にまじるいとど哉

 の「いとど」に関しては「コオロギ」と解する者あり、

芭蕉襍記 室生犀星 著武藏野書院 1928年

海士の屋は小海老にまじるいとゞ哉

同「いとゞ」と「こほろぎ」とは元來別個のもので、「いとゞ」は決して鳴くものではないが古くからこの二つは混同されてゐた。

しかし婆禮輪に「いとゞかうろぎ一物二名也」とあるやうに、俳句の上では二者區別がなかつたのである。


猿蓑俳句鑑賞 伊東月草 著古今書院 1940年


蕉門の人々 潁原退蔵 著大八洲出版 1946年

張り残す窓に鳴き入るいとど哉   

 この広瀬惟然(ひろせいぜん)の「いとど」も鳴いているから「コオロギ」であろう。

 しかあし

評釈猿蓑 幸田露伴 著岩波書店 1937年

 幸田露伴が「カマドウマ」と解釈している。これまでのところ、ほぼ幸田露伴の解釈が正解だった。


〇篗纑輪に、いとゞカウロキ一物二名筑紫にてはキゝゴといふ。其形蛬(キリギリス)の如くにして、首尖りて尖(スルド)なり。足鬚共に長し。竈の邊に穴居す、竈馬の字、イトヾカウロギと調ず、暮秋渫夜聲高く澄めり。

芭蕉句選年考 下 石河積翠園 著||大野洒竹, 沼波瓊音 校訂文成社 1911年
芭蕉句選年考 下 石河積翠園 著||大野洒竹, 沼波瓊音 校訂文成社 1911年

 

 こちらも「カマドウマ」説乍ら鳴かせているので何のことやら解らなくなっている。



国語漢文新辞典 金港堂 編金港堂 1914年


国語漢文新辞典 金港堂 編金港堂 1914年


国語漢文新辞典 金港堂 編金港堂 1914年


 この辞書も「カマドウマ」説。ウマカマドの文字有り。

 一応私も「カマドウマ」説をとりたい。

一茶叢書 第6編 [小林一茶] 著||信濃教育会 編古今書院 1930年

 一茶の「いとゞ」は「コオロギ」。

ぎぼうしの傍に経讀むいとゞかな     可南

 向井去来の句も「コオロギ」。


芭蕉翁全集 佐々醒雪, 巌谷小波 校博文館 1916年

 惟然の句の「いとゞ」は「コオロギ」、程己の「いとゞ」は「カマドウマ」臭い。


元禄十家俳句集

 丈草は「カマドウマ」。


元禄十家俳句集

 いや、「コオロギ」だろうよ。

 虫は鳴く。あちこちで鳴く。屋根でもなく。

明治句集 秋の巻


明治句集 秋の巻


明治句集 秋の巻


明治句集 秋の巻


明治句集 秋の巻


明治句集 秋の巻

 虫は鳴く。

 ただ虫が鳴いても句にはならぬ。

 だから芥川の句、

あかつきや蛼なきやむ屋根のうら

 これは「巴旦杏」に続いて「」で仕掛けてきた句と見て良かろう。そもそも幸田露伴と室生犀星の解釈が異なるのだから、「巴旦杏」同様「」にも二つの意味があることくらい芥川も知っていただろう。そこをあえて環境依存文字を使い「いとど」と訓じて鳴きやませるのだから確信犯だ。いとゞ耳かしましく靜ならぬをとて詠み給へるとぞ存じたまひき、ということか。

 

元禄十家俳句集

 こういうことではなかろうか。

あかつきや蛼なきやむ屋根のうら

 鳴き止むのが解るということは明けがた迄鳴いていて、寝付けなかったということである。熟睡していたら蛼がコオロギなのかカマドウマなのかが解らない。屋根のうらにコオロギが入り込むことがあるのかどうかは定かではないが、便所コオロギが屋根のうらにいても厭なものである。

 それにしてももし「屋根のうら」で鳴いていたのがコオロギならば、それはかなりの無駄なことではなかろうか。求愛もなわばりの主張もできまい。ただはた迷惑なだけだ。

 この句には我鬼の睡眠不足と「」の徒労が詠まれているといって良かろう。

屋根裏にあいなだのみの蛼かな

[追記]

 自分はこの秋も神経衰弱に罹つた。この秋もと云ふのは一昨年の秋、支那見物から帰つた時にも、やはり同じ病の為に三月ばかり苦しんだことがある。今度のはその時程重いのではない。が、催眠剤を用ひない限り、眠られないことは同じだつた。又催眠剤を用ひたにしろ、二時か三時に目が覚めたなり、天明を待つことは稀ではなかつた。「赤ときや蛼なきやむ屋根の裏」——自分は寝返りを繰り返しながら、かう云ふ句を作つた覚えもある。

(芥川龍之介『冬心』)

  こういう記録が確認できた。睡眠不足は確かなようである。

【余談】

 これら様々な感覚派文学中でも自分は今構成派の智的感覚に興味が動き出している。芥川龍之介氏の作には構成派として優れたもののあるのを発見する、例えば「籔の中」のごときがその一例だ。片岡鉄兵氏及び金子洋文氏の作はまた構成派として優れて来た。構成派にあっては感覚はその行文から閃くことが最も少いのを通例とする。ここではパートの崩壊、積重、綜合の排列情調の動揺若くはその突感の差異分裂の顫動度合の対立的要素から感覚が閃き出し、主観は語られずに感覚となって整頓せられ爆発する。時として感覚派の多くの作品は古き頭脳の評者から「拵えもの」なる貶称を冠せられる。が、「拵えもの」は何故に「拵えもの」とならなければならないか。それは一つの強き主観の所有者が古き審美と習性とを蹂躪し、より端的に世界観念へ飛躍せんとした現象の結果であり効果である。して此の勇敢なる結果としての効果は、より主観的に対象を個性化せんと努力した芸術的創造として、新しき芸術活動を開始する者にとっては、絶えずその進化を捉縛される古きかの「必然」なる墓標的常識を突破した、喜ばしき奔騰者の祝賀である。

(横光利一『新感覚論 感覚活動と感覚的作物に対する非難への逆説』)

 コオロギが鳴き止んだと詠んではつまらん、カマドウマが鳴き止んだと詠むのも馬鹿げている。いや、鳴いているのはもしやカマドウマかと拵えるのがひねくれものの我鬼には相応しいか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?